オプタテシケ プルケ プルケ
我がふるさとに住むアイヌには「オプタテシケ プルケ プルケ」で始まるウポポがあるそうだ(近江,1931).
近江の文章は,話の筋を追いにくいので誤解があるかもしれないし,アイヌの言葉や話の筋を正確になぞったものかどうかも疑問の余地があるが,「オプタテシケがプルケプルケ」したときに「山が湧き返って...」,アイヌたちは「みな縄を持ってよじ登り…逃れた」という.
プルケはpur-keで「大水(がでる);洪水(が起きる)」という意味(知里,1956)でプルプルケといういい方もあり,こちらはpur-pur-keで「(清水が)ゴボゴボと噴き出している;煙をふいている」という意味らしい.そうすると,「オプタテシケ(山)から,煙もしくは大水が出た」という意味になる.近江は「山が湧き返って...」と表現している.これでは,火山活動のことかと考えてしまうが,近江は以下のようにつづける.
そのころには,上川盆地にはあちこちに「当麻の親子山」,「東旭川の桜岡(採石の結果,現在は丘は存在しない)のように平地に突出した丘がたくさんあって,石狩川はその間を曲がりくねって流れていた」という.現在でも,写真のように,盆地にはたくさんの残丘が残っている.石狩川の洪水のときには,これらの丘に登って難を避けた,ということらしい.
これらの残丘群は,チャート,緑色岩,泥岩,石灰岩からなる岩体で,典型的な残丘となっているところはチャートが卓越している.これらの岩石から産出する微化石は古生代後期から中生代に渡ってさまざまな年代を示し,メランジェと呼ばれる複合岩体をなしている.
(当麻残丘群)
さてそのころ,今の神居古潭の場所には数千mの滝があった.
「ある年,オプタテシケの山が大爆発するとともに,盛んに火を噴き溶岩を飛ばし,泥水といっしょに種々雑多のものを流した.水といわず,石といわず,泥の海が一時に押し寄せ神居古潭の堅い岩石を突き破って滝がなくなった.」という.
「凸凹と突き出ていた山々は,この洪水のために,すっかり押し流されて現在のような広い平野ができあがった.」そうである.
そのとき,今の近文アイヌの祖先たちは,石狩川の洪水のときと同じように丘に登って難を逃れたという.
ところで,今のオプタテシケ山は十勝岳火山群の最北端に位置するので,大噴火したとしても上川盆地の話とは噛み合わない.それに,オプタテシケ火山の活動の最後は約26万年前と考えられているからだ(石塚ほか,2010).26万年前といえば,ミンデル-リス間氷期の最中で,旧石器時代華やかなりしころにあたる.古代型ホモ・サピエンス(ネアンデルタール人など)の時代であり,現代型ホモ・サピエンス(H.サピエンス サピエンス)まだ出現していないのだ.その時代の記憶をアイヌが持っているというのはね….
(図 十勝岳火山群活動ステージ;石塚ほか,2010)
さて,ではオプタテシケとはなにか.
オプタテシケというアイヌ語は,今では意味不明だそうだ.が,一説にはop-ta-teskeで「槍がそこに反り返っている」という意味であるという.つまり,鋭く聳え立った山容,えぐれた山を意味しているらしい.三角錐~四角錐の山体,あるいは爆裂火口を持った山をイメージするとよいか.日本語でも聳え立つ山を「~槍」,「槍~」と表現することがある.そして,そのような山容をもつ山は道内には複数個所ある.そして,むかしオプタテシケと呼ばれた山も複数ある.“槍のような”山はたくさんあるのだ.
これはアイヌ語の特性である.アイヌ語の地名というのは“固有名詞”的なのはなくて,その土地の性質をそのまま表したものが多いのだ.
上川地方のオプタテシケは,現在では(和人の命名法に従って)十勝岳火山群の最北端の山に特定されてしまっているが,アイヌたちは十勝岳火山群のとくに“オプタテシケ型”の山をそう呼んでいただけなのだ.大雪山連峰でも,とくに現在の旭岳はオプタテシケと呼ばれたこともあるらしい.そういえば,旭岳と(現在の)オプタテシケはえぐれ方が似ている.
ところで,わたしは「槍~」という山を見ても槍を連想したことがない.旭山やオプタテシケ山の形を見ると,(ふつうに連想する)槍よりも,アイヌがヒグマを仕留めるときに使うという木杭の先端を思い起こしてしまう.
なんにしろ,「オプタテシケ プルプルケ」のオプタテシケは,現在のオプタテシケ山に限定されては,よくわからないことになるのだろう.
さて,それでは「プルケ」とはなんだろう.
プルケはpur-keで「大水(がでる);洪水(が起きる)」という意味(知里,1956)でプルプルケといういい方もあり,こちらはpur-pur-keで「(清水が)ゴボゴボと噴き出している;煙をふいている」という意味らしい.近江は「オプタテシケの山が大爆発するとともに,盛んに火を噴き溶岩を飛ばし,泥水といっしょに種々雑多のものを流した.」といっている.
単なる噴火ではないようだ.
噴火そのものより,それを引き金におきた泥流の被害が大きかった,ということだろうか.
大正時代に十勝岳の噴火に伴い,大規模な火山泥流が起き,大災害をもたらした.詳しくは,旭川の生んだ小説家・三浦綾子が「泥流地帯」を残しているので,読めば実感できるだろう.
十勝岳の大正泥流は富良野側に起きた災害が有名だが,そのとき実際には,泥流は美瑛側にも流れている.ただ被害の方はよくわからない.美瑛町のハザードマップでは,美瑛市街迄泥流が来ることを前提としている.
それでも美瑛の丘を越えて,上川盆地側(とくに近文や神居古潭近辺)に流れてくるとは考えにくい.
そこで考えられるのは二つ.
ひとつは,富良野・美瑛地域に住んでいたアイヌが,泥流被害に住居をあきらめて上川盆地に移ってきた.そこで,過去の記憶を伝えるうちに泥流被害の場所が混同されてしまった.これを検証する方法はないが,美瑛>ビエイ(和人変換)>ビイエ(和人聞き取り)>ピイエ(アイヌ発音):もとは,piyeだったというから....piyeは「脂っこい,脂ぎった」という意味で,これでは意味がわかないが,十勝岳火山から流れ込んだ硫黄分が川を汚していたからだと解釈されている.
白金の「青い池」は最近有名になった観光地であるが,あのように不純物で汚れた水が流れておれば,アイヌが撤退しても不思議はない.ちなみに,青い池の正体は水酸化アルミニウムのコロイドによる太陽光の乱反射,だそうである.
ちなみに,一本北,上川盆地側を流れるベベツ(辺別)川は,pe-petで「水の川」,(=水量が豊富)という意味だそう.ピイエとは,じつに対称的である.
もうひとつの可能性は,旭岳の爆発に伴う泥流災害があったかもしれないということ.大正泥流被害が甚大であった十勝岳は,大正泥流のほかにいくつもの泥流堆積物が研究され発見されている(藤原ほか,2007;南里ほか,2008)が,旭岳にはそのような知見はない.だがそれは,明瞭な泥流被害がないから研究されていないだけなのかも知れない.
そういう目で見れば,今後上川盆地あるいは旭岳山麓から泥流堆積物が見つからないという保証は無い.その目で見なければ,見えないものもある.
アイヌの伝説をもとに,多くの津波堆積物の研究が進んでいる事実は,大いに参考になるだろう.
オプタテシケ,プルプルケ....
実際に,このウポポを聞いて見たいものだ.
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