2017年6月29日木曜日

アイヌの伝説と神居古潭

アイヌの伝説と神居古潭

オプタテシケの噴火
昔,神居古潭のところに数千丈の滝が有り、その高台にアイヌのコタンがあったが、或る年突然,大雪山と十勝岳の間のオプタテシケ*の山が大爆発をして、火を噴き熔岩の流れはあたりの岩石を突き破り、山を押し流し滝の下流をうずめつくして(原文は「うずめうくして」の誤植)しまったため、広い平野がで来てしまった。この爆発の時、アイヌの先祖達は爆発から起こる洪水をのがれるために、高いところへ高いところへと,縄をつたって逃げたが、現在上川に住んでいるアイヌの人達は、皆その時生き残った人の子孫で、今も神々に酒をあげるときにはオプタテシケにもあげている.
(近江正一「伝説の旭川及びその附近」)より
更科源蔵「アイヌの伝説集」より
*この一節は,更科源蔵は近江(1931)から引用したように記しているが,
近江には以下のように書かれている

上川原野太古の伝説
近文アイヌのウポポ(神前に捧げる祭詞)にオプタテシケ,プウルケ**,プウルケの祭文即オプタテシケの山が湧き返って人々は皆縄を持つ攀ぢ登り右往左往に逃れた…といふのがあるが太古上川平原の其處彼處には当麻の親子山,東旭川の桜岡のやうに平地に突出した岡が沢山あつて石狩川は其の間を曲りくねつて流れて居た.丁度カムイコタン(神居古潭)の個所には数千丈の瀑があつた.其の高地にアイヌ部落があつたのであるが或年オプタテシケの山が大爆発すると共に熾んに火を噴き熔岩を飛ばし泥水と共に種々雑多のものを流した.木といはず石といはず泥の梅が一時に押し寄せカムイコタン(カムイは神コタンは村,即ち神様の居る所の義)の堅い岩石を突き破つて滝がなくなつたが凸凹と突き出て居た山々は此の洪水の爲めにすつかり押し流されて現在のやうな廣い平野が出来上つたものである。その時アイヌの先祖達は此の洪水から逃れる爲めに縄で高い處高い處へと逃げ随分死減したのであるが現在上川に住んで居るアイヌ達は此の時生き残つた人々の子孫である.さうして此の時を忘れないやうに又カムイの恩を讃へる心持でオプタテシケプウルケプウルケのウポポを祭祀のある度毎に神前で唱へ続けて来たものである.
近江正一(1931)

 十勝岳火山群の発達史は,
  「新期十勝岳火山群(5~6万年前以降)」:鋸岳・美瑛富士・グラウンド火口・中央火口丘・焼山溶岩・摺鉢火口丘
  「中期十勝岳火山群(30万年前~数万年前)」:白金溶岩・奥十勝岳・上ホロカメットク山・オプタテシケ山・ベベツ岳・美瑛岳(新)
  「古期十勝岳火山群(100万年前~50万年前)」:原始ヶ原・前富良野岳・大麓山・富良野岳・古十勝岳・美瑛岳(古)
 の三つに分けられています(石塚ほか,2010;藤原ほか,2007;河内,1990など).
 つまり,現在オプタテシケ山と呼ばれている火山の活動時期は中期の初期(29~23万年前)となります.そうすると,前記二伝説のお話しは,29~23万年前ということになってしまいますね.アイヌ民族には旧石器時代の記憶がある? まさかね.
 脚注に示したように,じつはアイヌが“オプタテシケ”と呼んでいた山は,現在の和人がいうところの「オプタテシケ」とは一致していません.しかし,“オプタテシケ山”噴火の記憶があるとすれば,この“オプタテシケ”山は石狩岳か十勝岳である可能性が高いということになります.旭岳が最後に噴火的爆発を起こしたのは3000~4300年前といいますから,より可能性の高いのは十勝岳なのでしょう.
 でも,白滝ジオパークの黒曜石は二万数千年前から使われているといいますから,その頃には,のちのアイヌ民族に繋がる人たちが居たわけで,旭岳の噴火に遭遇しなかったとはいいきれないのが現状です.

 さて,どちらだったのか,またいつ頃のことなのか,それは置くとして,次の話題.
 「当麻の親子山,東旭川の桜岡のやうに平地に突出した岡が沢山あつて石狩川は其の間を曲りくねつて流れて居た」とありますが,どちらも上川盆地の平地に突きだした残丘です.これらは,チャート,緑色岩,泥岩からなるメランジュ岩体で,突出部はおもに赤色チャートからなる場合が多いものです.ほかにも当麻山,棚瀬山,あるいは突哨山なども同様の岩石からなっています.

 これには,いろんな地学的話題がでてきますが,次は神居古潭が「滝であった」という話題.
 オプタテシケの噴火前までは,今の神居古潭渓谷は完全に閉じており,数千丈は大げさとしても深川側へは「大瀑布」があったというのです.それを信じるならば,当時の上川盆地は“上川湖”だったことになるのでしょうか.非常に残念なことに,旭川周辺は露頭条件が悪く,気軽に観察できるようなところは少ないです.しかし,盆地の地下に関しては,地下水ボーリングコアの解析がおこなわれており,それには旭川層は上部層下部層共に「河川堆積物」とあって,湖成層は見られないようです.すると,旭川付近が湖であったとする地質学的な証拠は見つかっていない,とするしかありません.
 一体どんな事件が,このような伝説を残したのでしょうね.
 オプタテシケ,プルプルケ....十勝岳の泥流?

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* オプタテシケ:現在は,トムラウシ山と十勝岳の中間あたりにある山をオプタテシケと呼んでいるが,オプタテシケ山の実体は相当に複雑である.
阿寒地方,屈斜路湖には藻琴山の対岸に“オプタテシケ・ヌプリ”があり,オホーツク海から押し寄せてきた大津波に藻琴山もその附近のすべての山もすべて水没したが,オプタテシケヌプリだけは頂上に波をかぶらず,そこに避難していたアイヌは助かったという伝説がある(釧路弟子屈町屈斜路湖・弟子カムイマ老伝;更科,1981).上川では,更科(1981)は上記のように「大雪山と十勝岳の間のオプタテシケの山」としているが,引用元である近江(1931)は場所を特定していない.しかし,文脈からは「上川盆地周辺」であることがいえる.ところが,更科(1981)は「オプタテシケと阿寒の争い」(吉田巌「アイヌの伝説について」)を引用しているが,そこには「大雪山系の尖峰オプタテシケ」が雌阿寒岳と夫婦であったと書いてある.また同時に雌阿寒岳と夫婦であったのは「オプタテシケではなく石狩岳」という安田巌城「十勝地名解」;酒井章太郎「十勝史」も引用している.一方,金田一(1936)は,「北海道本島の凡そ中央とおぼしい所(中略)にオプタテシケがある」とし,十勝からも石狩平野からも「遠く仰がれる高嶺である」とし,「これこそ北海道最高の地点だと信じられて居る」としている.つまるところ,現在「旭岳」と呼ばれている北海道最高峰こそが「オプタテシケ」といっているわけである.これについて,太田満「アイヌ語ラジオ講座のコラム,石狩紀行(5)」で「Optateskeが何処を指すかについては①十勝岳連峰のうち十勝岳以南の諸山を指す,②同じく十勝岳以北を指す,③十勝岳連峰と大雪山塊を指すという説があり,一定しません」としている.また,「語源については山の神々が恋争いをした際,投げられた槍が逸れたという伝説と共に『槍が逸れる』と説明されます.確かにopは『槍』,teskeは『逸れる』なのですが,taが分りません.今後の研究によって解明される日が来るのでしょうか.」と結んでいる.
** プウルケ:不詳.pur-ke (ぷるけ)=大水(が出る);出水(する);洪水(が出る);津波が来る.pur-pur-ke(ぷるぷるけ)=①(清水が)ゴボゴボ湧き出ている.②煙をふいている.(知里,1956)


神居古潭の神々
大昔は神居古潭のところまで海であって、その川口のところ(今の神居古潭のところ)に石狩アイヌの部落があった。そして石狩川の神である蝶鮫は、いつもこの神居古潭の渕にいて、水の上に脊鰭をみせていた。この蝶鮫のシャメカムイと、山の神である熊とは大変仲がよかったし、石狩アイヌと上川アイヌも非常に仲がよかった。
秋になって石狩川に鮭がとれるようになると、両方の部落の人達は先ずその最初の鮭を、シャメカムイと山の神様にあげるのであるという。そして石狩アイヌが石狩川を遡って来るときには、必ず舟の舷をたたいて、石狩アイヌであるという合図をした。もし舷をたたかないでここへ入って来る者があると、石狩川の神のシャメカムイは舟を動かないようにするか、舟をひっくり返して溺らせ、ここから奥へよそ者を入れないようにしたという。
上川アイヌもこのシャメカムイと、キムンカムイ(熊)に護られて平和な生活が出来た。それで両方の神様のいたこの土地をカムイコタン(神様の部落)というようになったという。
ところが或るとき、魔神のニッネカムイがここに現われて、アイヌの魚をとる邪魔をして、人間共を亡ぼそうとしてあばれたことがあった。そこでシャメカムイが大変怒ってニッネカムイを捕えて殺して岩にしてしまった。その岩をニッネカムイといっていたが、現在は女夫岩とよんでいる。
このときの争いであたりが崩されたり流されたりして、陸地が今の石狩の方までのびてしまったのであるという。
(近江正一「伝説の旭川及びその附近」)
更科源蔵「アイヌの伝説集」より

更科は近江(1931)を引用したかの様に書いていますが,近江は以下のように書いています.

神居古潭の伝説
ずっと古い昔の話である。其の頃のカムイコタンが石狩川の河口で太古はあれから下流は海であつた。毎日々々帆掛け舟が何隻となく這入って来ては、石狩アイヌの捕らへた熊,鹿、鷹、狐、鮭,鱒と珍しい器具と交換したものである。今は石狩川口に住んでゐると伝へられてゐるシヤメカムイ*(石狩川に棲息するテウザメ)といふ神様が神居古潭停車場附近の深い淵に住んで居たが日のよく輝やいた日には美しい背名かを水面に出して居たものであった。此シヤメカムイと山のカムイ**(ヨモサク翁は熊の事であると話した)は非常に仲が良く一方は水一方は山で上川アイヌの守護神として崇められて居た。秋になつて鮭が捕れるやうになるとアイヌウタリ(アイヌの人々)は自分達の食ふ前に必ず此シヤメカムイと山のカムイに捧げたものである。石狩川を遡つて来るものは石狩アイヌであると必ず舷をたヽいた。これがシヤメカムイに「乃公は石狩アイヌでシヤメカムイの乾分であるといふ符丁であった。(後略)
× × ×
(前略)ニチエネカムイ***(鬼又は化物)がカムイコタンに来てアイヌ達に魚も捕らせなければ此種族も減ぼしてしまふと荒れ廻った時にシヤメカムイが現はれて大格闘の末に此ニチエネカムイを殺してしまつた。此の戰で多くの地面を流し突き進んで陸を作り現在のやうに石狩川口迄が陸になつたのである。カムイコタンから下流が海であつたのは事実で其の証拠にオトエ、タドシ****附近の貝塚から出るものは全く海の貝類の化石ばかりである。シヤメカムイに殺されたニチエネカムイは死んであのニチエネネカムイ岩となつたものだが,カムイコタンといふのはカムイの居る川口の村といふ意味であると云ふ.
(後略)
近江正一(1931)

 太古には,神居古潭が石狩川河口で,そのむこう深川方面は「海」であったとのこと.そんなバカなとお思いでしょうが,アイヌの伝説はその証拠として「音江」や「多度志」の貝塚をあげています.貝塚があるかどうかは知らないのですが,音江,多度志は滝川層分布地域で,タカハシホタテをはじめとして,クジラ,カイギュウなど多数の海生動物の化石が産出するので有名です.つまり深川は海だったのです.もっとも,300~500万年前ですけども.(^^;
 川沿いを歩いていて,岩盤に張り付いた無数の貝化石をみて,そこが海だったと理解したアイヌの自然観察力は驚きですね.当時,帆掛け船が這入ってくることはなかったと思いますが....

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* シヤメカムイ:same-kamuy/shame-kamuy(さめ-かむい/しゃめ-かむい)=サメの神.(石橋孝夫,2015より類推)
** 山のカムイ:kim-un-kamuy(きむん-かむい)=山にある神(知里,1956).更科の引用ではキムンカムイになっているが,引用元の近江(1931)では「山のカムイ(ヨモサク翁は熊の事であると話した)」となっている.もとは「iwor-kor-kamuy(いうぉる-こる-かむい)=山奥を支配する神」(知里,1956)なのかも知れない.
*** ニチエネカムイ:nitne-kamuy(にっね-かむい)=魔神(知里,1956).「wen-kamuyも「悪い神」であるが違いは不明.
**** オトエ、タドシ:音江,多度志:ともに滝川層群の分布地.


(洪水伝説)*
神居村台場ヶ原の一端が突出して断崖をなし,忠別太と境する附近の崖上は,和名立岩,アイヌ語カムイ岩又はイペタムシユマ**と称する所であるが,此のイペタムシユマ(恐ろしい刀の岩)及び同所ホトイバウシ***(呼ぶ場所)には神秘的な伝説が遺されてゐる.(中略)
ホトイバウシ(呼ぶ丘)の伝説はこうである.
往古上川平野に大洪水があった.当時の酋長が此処に立って避難するアイヌウタリを呼び集め,前面の嵐山・近文山に避難した一族の安否を心配して大声で問ふた事から此名が起こったものであると云はれてゐるが,昔此地にポルクニウングル****といふ大酋長が要塞を構え,時々はあの強力なるシヤマイグルと戦争を交えたといふユーカラも残されている.
近江正一(1931)

 イペタムシュマは現・旭川市忠和3条1丁目の路傍に立つ層状赤色チャートの巨岩です.同様の巨岩は石狩川の中州(鷹栖町)にもあって,こちらはノチウ(nociw=星)と呼ばれています.星が落ちてきてここに突き刺さったという伝説があると云われますが,今のところ原典は見いだしていません.近江(1931)は「此の附近にある岩も古は泥の如く柔らかいもので今のオサラツペ川口附近の大きな岩は大海潚の時に流れて來た鯨が化石になったものであると,言い伝えられて居る」としています.
 近江は「泥の如く柔らかいもの」としていますが,それはもちろん,放散虫軟泥のこと.近江が源岩を放散虫軟泥と理解していたかどうかは分かりませんが,この源岩が一億年もかけてはるか南東から太平洋を渡ってやってきたことは知らなかったでしょう.
 さて,ふつう大海潚(大海嘯)といえば津波のことですが,多くの人はこれを上川盆地を襲った大洪水の事だと考えています.しかし,これはいわば残丘であって,もともとここにあったものが石狩川の流れで洗い出されたもの.とても,破局的な現象で一時にあらわれたものとは思えないですね.
 さてさて,津波伝説はこのあと.

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* 洪水伝説:原著(近江,1931)には,とくに標題はない.仮に付け加えた.なお,句読点も付加してある.
** イペタムシユマ:ipetam-suma(いぺたむ-すま)=人食い刀-岩.
*** ホトイバウシ:otuypa-usi(おとぅぃぱ-うし)=叫ぶ,呼ぶ-場所.
**** ポルクニウングル:不詳.ポルクニウンクルという表記もある.
***** シヤマイグル:サマイクル(Samayekur)という表記もある.アイヌの英雄神の一人.


(津波伝説)
かっこうの津波知らせ(原題:かっこうに助けられた子)
ハムカッコゥ,カッコ,カッコ
アイヌの子どもと和人のおとなたちが,魚を取ろうと,海辺に,葦を切った上に大きな家を建てた.ところがどうも毎日毎日雨つづきで,みんなうんざりしていた.
ある日のこと、かっこうの子どもが,
「津波が押し寄せてくるぞ,みんな早くそこから逃げろ」と,くちばしをパクパクさせて,あちらこちらと飛びに飛びまわって知らせた.
羽のある鳥たちは,それを聞いてすぐ海辺を去り,アイヌの子どももころぶようにして逃げ去った.家へ向かってとんで帰った.
ところが浜辺の和人たちは,おしゃべりをつづけ,夜も昼もにぎやかにおしゃべりをしていた.それでかっこうの子どもの声なんぞてんで気にしなかった.
ある日のこと,沖合いで大きな音がドーンとした.それで小鳥たちが,いっせいに飛び散った.けれど和人たちはやっぱり,おしゃべりをつづけていた.私(子どもたちの母親)の子どもが,突然私のそばにころがりこんできた.私はわが子を二つの腕で抱きかかえた.私は両腕をすぼめて海辺へ向けて歩んでいくと,大きな山が見えてきた.津波が押し寄せていたんだ.私は急いでご飯を炊く道具と弓を手にして,山へ向かって走りに走った.どんどん,どんどん逃げて,山の頂にある大きな松の根元まで逃げてきて,
「私どもはアイヌでございます.いつも拝んでいる神がいるのに,これはまたどうしたことか」と声に出しながら,更にまた逃げて,山の上ヘ上へと登っていくのだった.
山の頂の,大きな松の木に私たちはよじ登って,松の葉の茂みの中にひっそり隠れていた.
さて夜が白々と明けてきた.あたりを眺めると,魚をとる家は影も形もなかった.津波がさらっていったのだ.
私どもは,あのかっこうが津波を知らせてくれたので,こうして,私の子どもたちともども,まるでかっこうのように,そっとひそんでいたので,みんな助かったのだ.
これからはどんなことがあっても,かわいいこの子たちを手離すまいと思っている.

さて,それから後,私(主人公の子ども)の名前はこうなったの------「カトコロエカチ(幸せな子)」.私の名前がそうなったのは,かっこうの神が私に津波を知らせて逃がしてくれたので,そう呼ばれるようになったのだ.
原話語り手 門野ハルエ*------上川・旭川市
出典「日本の昔話2・アイヌの昔話」稲田浩二編より。
「アイヌの昔話」稲田浩二(2005)

 長々と引用してしまいましたが,驚いたことに,旭川のアイヌが津波伝説を語っています.前出の,神居古潭から向こうは海であったという伝説をふつうに支持しています.ほかにも,次に示す伝説のように...

神居古潭の船つなぎ岩
神居古潭の釣橋の下手にある岩に,ベンザイトゥシコテシララ**(弁財船の綱つなぎ岩)という名がついている.昔ここまで海であったので弁財船が来たときに,船を繋ぐところであった.その縄をしばる穴が今も残っている.
(旭川市近文 石山秋三郎老伝)
更科源蔵「アイヌの伝説集」より

...神居古潭の下流は海であった前提です.
 門野家の先祖に当たるクーチンコロは,開拓使の石狩川下移住命令に反抗し,ただ一人で兵部省石狩場所の役人を相手に論陣を張り,命令を撤回させたという過去がありますので,上川アイヌ(のごく近い先祖)が元は石狩河口に住んでいたとは考えにくいのですが,遠い先祖は石狩下流に住んでいて,上川に移住してきて住み着いた,という可能性はあるでしょう.もちろん,留萌方面から移住してきたという可能性も.津波の記述に関してはかなりリアルなので,伝聞ではなくて,そのときの経験を元にできた津波伝説という可能性が高いと思うのですが....

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* 門野ハルエ:上川総乙名クーチンコロの孫・門野ナンケアイヌの妻.

** ベンザイトゥシコテシララ:pencay-tus-kote-sirar(ぺんちゃい-とぅし-こてしらら)=弁財船の・綱を・繋ぐ・岩(知里;由良,1990, 2006).昭和40年ころ,破壊された.高校生の仕業とも,銘石泥棒の仕業ともいわれている.

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