2018年12月7日金曜日

徳内の愛妻3 徳内家の子ら

連れ子「さん」のちの「ふみ」

「「ふで」この年十九歳、初め十四歳にて一度嫁し、一女「さん」(後のふみ)を産んで夫に死なれ、出もどつてゐたのであるが、こんど六歳の「さん」を連れて俊治の徳内と結婚したのである。」(皆川,1943p.74

  1783(天明三)年生まれ.
 「ふみ」は徳内の養子「鍬五郎」と結婚.たぶん,このころはまだ「さん」と呼ばれていただろう.結婚の時期は不明.徳内の長男「俗名不明:常観童子」が1795(寛政七)年七月に死亡しているので,嗣子がいない.であるから,たぶん鍬五郎を養子とした(つまり「さん」が結婚した)のはその後ということになる.しかし,徳内の目論見は外れ,鍬五郎は1801(享和元)年二月死亡.
 その後の動向は不明.1833(天保四)年十二月二十四日死去.

養子「高津鍬五郎」

「徳内養子鍬五郎」(皆川,1943p.340
「充之進不埒のため、ふみは離縁せられ一男三女を殘して徳内の家に戻つてゐた。ふみは不幸な女であつた。生後間もなく父親に死なれ、鍬五郎と結婚して間もなく夫に死なれ、女きよを徳内に託して山城充之進に嫁したのであつたが、今度は夫と子どもに生きながら別れなければならなかつたのである。」(皆川,1943p.341

 p.339の家庭図に,養子鍬五郎(享和元年二月十日死享年二十歳)とあるので,逆算して1782(天明二)年生まれ.1801年(享和元年二月十日)死亡.
 後述の長男が1795(寛政七)年に死亡しているので,徳内一家には嗣子がいない.鍬五郎を養子として「ふで」の連れ子「ふみ」を妻合わせたのであった.しかし,一女「きよ」を儲けただけで死去.島谷(1977)の家系図には「一男」が描かれているが,島谷の本文には現れず,皆川(1943)には影も形もない.島谷が示した家系図の間違いか,あるいは生後すぐに亡くなったのかも知れない.ただ,養子の子とはいえ,徳内一家の嗣子に当たる子である.なんの記述も無いのはおかしい.島谷編の家系図の「ミス」である可能性が高いだろう.

養子「高津鐵之助」

 皆川(1943)の本文中では,徳内の墓の北側に四つの墓碑があり,それらは「善門院通譽自性居士(二代目徳内效之進;後述)」,「靜譽寂道信士(鍬五郎)」,「常觀童子(実子長男)」,「善譽達道信士」の名が刻まれているという.このうち「善譽達道信士」は俗名「最上鐵之助常準」.「鐵之助」については,ほかになにも記述がないが,四つの別の墓があることおよび俗名から,鐵之助は養子であったことが推測される.つまるところ,1804(文化元)年には養子として入っており,1807(文化七)年には死去したことになるだろう.鍬五郎が死去したのは1801(享和元)年であるから,1801年から1804年の間に養子と迎えられたのであろう(1803年に徳内の実子・效之進が生まれているので,18011802年の間の可能性が高い).ちなみに鍬五郎は鐵之助の兄.皆川は高津家の家系図も示している.
 さすがに徳内夫婦も,連れ子「ふみ」を鐵之助に妻合わせることは憚られたらしく,鐵之助は「養子」としかない.しかし,1803(享和三)年に徳内の嗣子・效之進が生まれているので,養子・鐵之助は居場所がなかったのではないかと思われる.
 文化元年家庭図の鐵之助には「文化七年五月六日死享年二十七歳か」とある.墓に刻まれていたのだろうか.逆算して,1784(天明四)年生,1810(文化七)年没となる.

長男「常觀童子」

「この年二人の間に男子が生れた。これが寛政七年七月十九日八歳で亡くなった「常觀童子」であらう。」(皆川,1943p.75

 1788(天明八)年,徳内と「ふで」の長男生まれる.生年は記載がないが没年から逆算した.童子に関する記述はこれしかない.もちろん,童子は「ふで」出奔の時,背負うていた赤子である.

長女「もじ」

「八十吉が徳内の長女「もじ」を娶つたのは遅くとも文化十一年「もじ」十八歳頃のことである。」(皆川,1943p.340

 「もじ」の生年は,逆算して1797(寛政九)年.
 1834(天保五)年,徳内(当時,須磨男と称す)が「おふで」に代筆させた手紙に付けた自筆の手紙に「おもし 同居罷在候」とある.生年から計算すれば,この年38歳.

次男(嗣子)「效之進」

 皆川(1943)で次男・效之進の名が出てくるのは,339頁「文政元年徳内64歳の家庭図」が最初である.そこには「效之進十六歳」としかない.したがって,逆算すると生まれたのは1803(享和三)年となる.
 1829(文政十二)年の徳内の手紙によれば,效之進は二十七歳.嫁をもらって息子が二人いるが嫁の名前は書かれていないという.
 1835(天保六)年,「宗三郎(九歳)きみ(七歳)晴之助(六歳)三人を殘して二代目徳内效之進は遂に死んだ。」とある.

次女「かく」

 「かく」については,生没年すらはっきりしない.
 島谷(1977)の家系図によれば,二人の結婚相手が示されていて,「初婚:早川欽次郎(裕次ともいう。松前に罷越したまま帰らず)」と「再婚:太田亀吉(徳内八十歳の時にはかくの夫であった)」とあるのみ.
 1829(文政十二)年の徳内の手紙には,「末子「おかく」儀は去夏聟養子を貰ひ名は欽次郎、是は效之進子供も幼年の儀に付ひかへに致し置き、往々別家相立候樣にも可仕候。當年十九歳にて松前に舞越候早川八郎次男に御座候」とある.
 島谷(1977)がいう「裕次ともいう。松前に罷越したまま帰らず」は根拠不明であるが,皆川(1943)によれば,資料に「婿裕次」の文字があるので,「欽次郎ではなく裕次郎」の誤りかも知れないとしている.また,皆川(1943)が示した徳内の手紙の内容からは「かく」は早川家に嫁いだのではなく,「早川欽次郎」が「かく」の婿養子である.また,島谷は「松前に罷越したまま帰らず」というが,徳内の手紙からは松前に罷り越したのは欽次郎の親の早川八郎であり,その次男が欽次郎(十九歳)とも読める.1829(文政十二)年の家庭図には「かく」と欽次郎は「文政十一年夏結婚」とある.

 ところが,徳内八十歳の時の家庭図には,「おかく」の項目に,「夫 太田龜吉 子供當時無之候」とあり,欽次郎の名はない.皆川の記述によれば,「この祐次郎も「かく」と琴瑟相和さぬためか、天保三四年頃に離籍となり、太田龜吉と結婚した。婿養子だか、また太田龜吉の如何なる人物か説明がない。」とある.「ひかえ」にはならなかったようである.

この話題,おわり


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

あまり取り上げられていない貴重な情報を分かりやすく掲載してくださり、ありがとうございます。
徳内、ふでの才覚を受け継いだ子孫にお会いしてみたいものです。