長いんです.すいません.m(_ _)m
でも,短く編集する気もおきませんので.
パジェスは1814年にパリで生まれパリで育った.1847年に北京フランス公使館の外交官として清国に赴任.当時の清国はアヘン戦争(1840年~1842年)でイギリスに敗れ,不平等な南京条約を締結させられたことに不満が高まっており,投石や殺害など外国人排斥運動が頻発していた.パジェスは1851年にフランスへ帰国.その後,清国軍と英仏連合軍が対峙する第二次アヘン戦争ともいわれるアロー戦争(1856年~1860年)が勃発している.日本では江戸時代の嘉永年間(1848年~1854年)にあたる.
(Wikipediaより.一部編集)
「日本切支丹宗門史」
元書名:Léon Pagés 著 Histoire de la Religion Chrétienne au Japon depuis 1598 jusqu'a 1651, comprenant les faits relatifs aux deux cent cinq martyrs béatifiés le 7 juillet 1867. 2 vols. Paris. 1869.
和訳:「一八六七年七月七日、福者に舉げられたる殉教者二百五人に関する事蹟を採󠄁録せる、一五九八年より一六五一年に至る、日本切支丹宗門史」
この本は,パジェスによれば,「日本帝国史」(全四巻)として刊行を予告された本の一部で,第三巻目に当たる.しかし,この第三巻目以外は発行されていない.
日本語版は,吉田小五郎により,1931から三田史学会の「史学」に掲載されたもので,1938年に岩波書店より全三巻で出版されている.「史学」掲載分については,一部しか「慶応義塾大学学術情報リポジトリ」になく,したがってCiNiiにもその分しか表示されないので,全容は不明である.
これを読んでいて,どこまで信じていいのだろうか,と疑問が湧いてきた.簡単にいってしまえば,これは歴史書などではなく,野蛮で残酷な日本人が高貴なキリシタンに加えた行為の記録である.いちばん「おかしい」と思うのは,状況再現があまりにも精緻であること.逮捕されたキリシタンと役人との間の葛藤など,いったいどこに記録があるのかと思うが,その場で見てきたかのような記述である.
読んでいておかしくなるくらい「形容句」が多い.キリシタンに対しては清潔・高貴な修飾ばかりで,日本人(お役人)に対しては汚辱・侮蔑ばかりである.原文が悪いのか,訳者が下手なのか,一文の中で矛盾していたり,解釈不能な文章が多い.なお,索引には間違いがおおく,重要な「附録」は削除されている.
それでも当時のキリシタンのことなど,記録が見当たらないので,これに頼るしかないのが哀しい.日本にも,関連書類が帝大書庫あたりに封印されているのかとも思うが,探すことすらかなわないのが哀しい.したがって,まずは,この「日本切支丹宗門史」から,蝦夷地にやってきたパドレの足跡を探ってみようと思う.
===1615-1616(慶長二十~元和元年)===
「同じ頃、イエズス會のデ・アンゼリス師は、帝国の極北に赴いて、津軽の流人を慰問し、更に蝦夷の地方に入込んだ。」(上401)
現在の日本では,極北(最北)といえば蝦夷地(北海道)であるが,当時の蝦夷地は支配の及ばないところであった.したがって,津軽の地が最北であった.そこには,秀吉の禁教令により,京都・大阪から流されてきたキリシタンが生活していた.
彼らはもともと高貴な生まれであり農作業など不得手であったうえに,ただでさえ農地に適さない土地柄で収穫は少なく,加えて悪天候が続き「飢饉」の様相を示していた.
「ヒエロニモ・デ・アンゼリス師(註五八)は、これ等の慰問品を齎して來たが、この難教者の移民に就いて、悲痛な記述を遺した。彼は、彼等の堪忍と徳とを見て、深く自ら恥ぢ、又大いに感動させられたと告白したのであつた。」
「出羽の仙北で、彼は伏見で洗禮を受けたペトロといふキリシタンが、自ら六百人の未信者を改宗させ、且つ彼等に洗禮を授けたことをきいた。」
「デ・アンゼリス師は、北方の諸国を巡歴し、その地方で夥しい未信者に洗禮を授けた。」(上414)
彼らの悲鳴は長崎まで届き,ジェローニモ・デ・アンジェリスは多量の受給品を携え,津軽に訪れた.これによって流人たちは一息ついたが,この事によって,同じ飢饉に耐え忍んでいた現地の日本人から恨みを買ったのも間違いなかろう.キリシタンに対する悪意が増えた要因でもあろう.
津軽に現れたデ・アンジェリスは,この時に北国(上記のように「蝦夷地(北海道)」は北国ではない)を巡検したらしい事がわかる.
デ・アンジェリスの履歴は「註58」にある.
註五ハ デ・アンゼリス師は、一五六八年シシリイ島のEnnaに生れ、十八歳の時、イエズス會に入つた。未だ修士であつた頃、スピノラ師と共にヨーロッパを出發したが、イギリスの海賊に捕へられ、後ポルトガルに歸るに及んで、神父の資格を得、再び同じ神父と共に印度に派遺せられ、一五七五年マカオに到着、一六〇二年曰本に来た。彼は上方の伏見の修道院長となり、次いで内府様の在す駿河に至り、そこに修道院を建て、間もなく又江戸に出て、同じく修道院を作らうとした。然し、土地を買取した丁度その日、迫害が始まつたので、彼は再び駿河に歸り、一六一四年の追放の時までこゝに留り、その後は長崎に匿れてゐた。(上427)
恐らく,これが日本で最初のデ・アンジェリスの履歴の紹介であろう.
===1620(元和六年)===
「奥州では、千人餘の未信者がヒエロニモ・デ・アンゼリス、ディエゴ・デ・カルバリオ(日本名長崎五郎右衛門)(註三一)、ヨハネ・マテオ・アダミ(註三二)、マルチノ式見(註三三)(市左衛門)の神父達から洗禮を受けた。政宗を第一とするこれら諸國の大名達は、國法に從ふためには、迫害を我が義務とした。大使派遣(支倉一行)のために幕府から疑をかけられ、また公方様を倒すために、イスパニヤ王との同盟を求めたと噂された彼政宗は、身の潔白を證せんとし、領内キリシタンの根絶を決意した。彼は、命令三箇條を出した。第一、將軍の意志に反してキリシタンになった者を第一の罪人として、直ちに棄教を命ず。之に反する時は、富者は財産を沒収し、貧者は死刑に處す。第二、總てキリシタンを轉ぶ者には、榮譽と賞金を與ふ。第三、福音の傳道者全部に對し、少くとも信仰を棄てざる限り追放を命ず、と言ふのであった。」(中138)
伊達政宗は,宣教師達を死刑にするとはいっていない.「追放を命ず」としているのみである.しかし,江戸では違った.
註三一 彼は、アルバロ・フェルナンデスとマルガリタ・ルイスとの間に、コインブラで生れた。彼は、一五九四年十七歳の時、生れた町でイエズス會に入つた。彼は、一六〇〇年十九人の他の人と共に乗船し、一六〇一年マカオに渡り、そこで哲學と神學の勉強を終つた。一六〇九年、彼は一年間語學を勉強した後、日本に渡つた、二年間を天草で送り、それから上方に遣られた。一六一四年に流され、一六一五年の初め、ナポリ人なるフランシスコ・プソミ神父と共に、交趾支那に送られた。カルバリオ師は、この國に住んでゐる日本人の商人の救靈を命ぜられてゐた。二人の教師は大に王の優遇を受け、交趾支那傳道の基礎を据ゑた。一時迫害が起ると、カルバリオ師は、一六一六年マカオに歸つた、同年、彼は再び日本に入り、初め大村で働いた。一六一七年、彼は第四の誓願を立て、奥州せデ・アンゼリス師と再會し、その布教を助けた。デ・カルバリオ神父は、三度津軽の流人を訪問した。(Franco. Coimbra. t. I. p. 122.)(中161)
ディオゴ・デ・カルバリオの履歴の紹介は,日本ではこれが最初であろう.
「ディエゴ・デ・カルバリオ神父は、デ・アンゼリス神父によつて、年々奥州より津輕に遣られ、聖なる流人を慰問した。」
「彼は最初、秋田と、出羽の仙北地方の城下町久保田(現今の秋田)に行つた。然し彼は、商人にのみ與へられて、普通の旅人には與へられなかつた旅手形の件で、津軽行を妨げられた。彼はキリシタン達が警戒してくれ、この國を通つて歸してくれることを期待して、蝦夷に行く決心をした。」
「一六一六年頃、蝦夷で甚だ豐産の金山が發見された。それで多くの坑夫が、その地に渡つたが、その中の若干は、キリシタンであつた。一六一九年には一萬五千人、一六二〇年には八萬人の坑夫がゐた。」(中140)
デ・カルバリオ神父はデ・アンジェリス神父の命により,陸奥国から津軽へと送り込まれた.「秋田と、出羽の仙北地方の城下町久保田(現今の秋田)に行つた。」は意味不明.仙北群に城下町・久保田はないからである.誤訳であろう.
秋田に在して津軽へ行けなかったので,蝦夷地へ行く,というのは論理的に繋がらない.
1616年頃,蝦夷で金山が発見され,多くの坑夫が蝦夷に渡った.その中の若干名はキリシタンであった.1619年には1.5万人,1620年には8万人の坑夫がいたという.ここで,「坑夫」は通常「あな」を掘って,有用鉱物を採掘する「鉱夫」のことであるが,パジェスの原語は,それを意味していたのだろうか.それとも訳者の誤訳だろうか.蛇足すれば,松前金山は「坑道掘り」なのか,「砂金掘り」なのかという問題である.
「神父は、その伴侶と共に旅手形には、坑夫として書いて貰つた。」
「總ての船舶は、日本人のゐる蝦夷の尖端松前の港を溜りにしてゐた。領主は、その地の生れではあるが日本人で、彼の収入は、商賣と同時に鑛山から出てゐた。」
「デ・アンゼリス師は、既に二年前に渡つたことがあった。領主は、彼を伴つて優遇したが、神父の出發後間もなく、土地の人のキリシタンになることを禁じた。彼は、旅人のことを別に心配せず、信仰の自由を與へた。」
デ・カルバリオ一行は坑夫という名目で,旅行手形をもらった.
蝦夷へ渡る船は松前の港を停泊地としていた.松前の領主は現地生まれの日本人であり,藩の収入は通商と鉱山から得ていた.
デ・アンジェリスは1618年に松前に渡ったことがあった.「伴って」の意味は不明.領主はデ・アンジェリスを優遇したが,彼の帰国後,住民にキリシタンになる事を禁じた.「彼は、旅人のことを別に心配せず、信仰の自由を與へた。」の意味は不明.旅行者が,どのような宗教を信じようと関知しないという事か.
「カルバリオ師は、雪のサンタ・マリヤの祝日に、ミサを獻てた(註三七)。デ・アンゼリス師は、同地を視察するに渡つたので、聖祭用具を持つて行かなかつたが、キリシタン達は,鶴首して宣教師を待つてゐた(註三八)。彼等は大抵、或る者は同國で、また或る者は奥州で、アンゼリス師から洗禮を受けた人々であった。若干の他の者は、上方の地方から來た者であった。」
「神父は、告解を聴くために、松前に一週間を送り、それから一日路の所にある坑夫達の許に行つた。道は甚た嶮しく峨たる山を乗り越えたのであるが、其處からは帝国中の最大部が見渡された。彼は、鑛山の極く近くの隠れ家のある村で、ミサ聖祭を獻て、そこで聖母の被昇天を祝つた。鑛山に使はれてゐたキリシタンの中、二人は舊の傅道士で、宣教師の仕事を助けてくれた。更に、一週間は有效に過され、神父は大勢の病人の告解を聽いた、その中、若干は非常に遠い所から連れて來られた者であつた。やがて、神父は、再び松前に歸つた。」(中141)
註三七 八月五日。
註三八 com olhos longos (Diogo de Carvalho). (原文)
「雪のサンタ・マリヤの祝日」は「雪の聖母(イタリア語:Madonna della Neve)」のこと.単なる伝説であるが,その日8月5日はローマカソリックの祝日である.
デ・アンジェリスは視察の為に蝦夷に渡ったので,聖祭具は持参していなかったが,現地のキリシタンは首を長くして待っていた(デ・アンジェリスに命じられていったのであるから,たぶんデ・カルバリオは聖祭具を持参していたのであろう).彼らは,たいていデ・アンジェリスから洗礼を受けた人々であり,おおくは同地で,あるものは陸奥でその他の何人かは京都大阪から来たものであった.
デ・カルバリオは松前で一週間過ごし,その後,鉱夫たちの在所に行った.道は大変に険しく,峨々たる山を乗り越えた.そこからは本州が見渡せた.彼は鉱山のそばの隠れ家のある村でミサを行い,「聖母の被昇天」(8月15日)を祝った.鉱山にいたキリシタンのうち二人は伝道師で,宣教師の助手を行った.さらに一週間が村で過ごされ,キリシタンたちの告解を聞いた.それらのうち幾人かは非常に遠いところから来たものであった.やがて,神父は松前に帰った(最低18日間,蝦夷地にいたことになる).
松前を出るときに税を払わされた.その日のうちに津軽に到着.津軽で手形を登記してもらい税を支払った.港から一日半で津軽の城下町・高岡(現:弘前)に着いた.そこのある村には京都からの流人がおり,隣村には大坂からの流人がいた.ほかの二つの村には北国(越前・加賀・能登・越中)流人がおり,その中にはヨハネ休閑(浮田秀家)の息子三人がいた.デ・カルバリオはそこで秘跡を行った.
「津輕の關所を通過することは、諺にある位困難であつたが、キリシタンなる役人の計ひで、取調べを受けずに、通過することが出來た。」(中143)
津軽の関所に関する「ことわざ」は不明.前半と後半は矛盾するが,パジェスの文章にはしばしば現れる.
デ・カルバリオはふたたび久保田を訪問し,領主・佐竹右京大夫(義宣)の妾オニシャマ(お西様か?)にあった.
「神父は、最後の傳道として、仙北地方の院内の銀山を訪問した。」
「傳道は三箇月續いたが…(以下,神父がいかに神に守られているかという記述が続く)」(中144)
「最後の伝道」の意味は不明.院内銀山はキーワードになるか?
===1621(元和七年)====
「彼(政宗の城下町(仙臺)にゐたデ・アンゼリス)は、キリシタンの告解を聽き、蝦夷の地方(註三一)に關する詳しい情報を集めるため、同地に渡るやう命令を受けた。彼は、その使命を果し、歸途、江戸に落ちついた。彼は、召捕られるまで、そこに留まつてゐなければならないのであつた。」(中178)
註三一 彼は、蝦夷、日本、朝鮮、韃靼の一部と新イスパニヤ(メキシコ)の一部さへ出てゐる不完全な地圖を送󠄁つた。蝦夷は、島であるか半島であるかの問題が決定されずに殘つてゐた。彼は、住民の體格と風俗とを叙述した。彼は、着物が、無数の十字架で飾られてゐることを注意したが、未だ忘却の中に葬られたその原因を知ることは出来なかつた。この人々の宗教は、粗野で、漠然たる迷信的のものに過ぎなかつた。神父は、數と他若干の語の表を附記した。
仙台にいたデ・アンジェリスは(この文の中での前後関係に怪しさがあるが,蝦夷に渡るように命令を受けたのは1616年の話であろう,その使命が終わり),1621年には江戸にいた.現代語解釈では,「(アンジェリスは)逮捕されるまで,江戸にいなければならなかった」という奇妙な文になる.意図的に逮捕されたのだろうか.それとも単に誤訳で,「逮捕されるまで江戸にいた」というだけの意味なのだろうか.
なお,アイヌの宗教(世界観)について,“粗野で迷信的”と判断するのは尊大であると思われる.
註一三四 (前略) ヒエロニモ・デ・アンゼリスとヨハネ・マテオ・アダミの兩師は、越後と北方に位する佐渡の島に二囘行つた。デ・アンゼリス師は、蝦夷の松前に渡り、歸りに、津軽の流人を訪問した。ディオゴ・デ・カルバリオ師も亦、同地方へ傳道に出かけた。(中275)
松前に関しては,すでに記述されている事と同じ.
===1623(元和九年)===
1623年8月23日(元和九年七月二十七日):徳川家光が将軍となる.キリシタンは死刑と決まる.
江戸にいたデ・アンジェリスは,彼のパトロンが拷問を受けたとのことで,自首することにした.デ・アンジェリスは変装を解き,修道服を着て奉行所に出た.
「デ・アンゼリス師は、奉行から檢べられると、『私は、イエズス會の司祭であり修道者である、イタリヤの國はシシリイ島で生れた、色々の話から、日本人の芽出度き性質と、而も日本人に救濟の希望あることを知り、一切のものを捨てて、この日本人の中に參つて眞理を傳へようと思つたのである。私は、御國の風俗を採用し、日本人のやうにしてゐる。二十年間の傳道の總ゆる苦勞、總ゆる艱難、私が身は、この人民の救濟のために獻げたものだから、よく使はれたと思つてをります。』衆人みな、この精神の獨立と、異國の國民に對する母親のやうな心情に感嘆した。然し、政治的奴隷たる奉行は、この聖なる修道者を監禁した。」(p.289-290)
(以下処刑までの様子詳細あり)
12月4日(和暦か否かは不明),原主水らと共に死刑.
「その間に、二囘も蝦夷の國を訪問し、その地方で初めてミサ聖祭を獻てたディオゴ・デ・カルバリオ神父は、奥州と出羽に滞在し、秋田や南部の地方に天主堂を建てた。この地方に迫害が起るや、彼は遁走を拒絶し、弟子たちと共に踏留まる決心であつた。」
「この年の末頃、彼は、デ・アンゼリス師から、三度目に蝦夷の韃靼人を訪問せよとの命を受け、この旅行を果した。」(中298)
デ・カルバリオは,奥州(現:岩手県)と出羽(現:山形県と秋田県)におり,天主堂を建設した.取り締まり強化が進んでも,彼は逃走を拒否した.
1623年の末頃,デ・カルバリオはデ・カルバリオから三度目の訪夷を命じられた(当時にしても蝦夷に韃靼人はいなかったろう).
===1624(元和十~寛永元年)===
「この時、デ・カルバリオ師は、宿主の宅でそのまゝ死ぬことを心配して、彼と別れたが、これは、政宗の領内に留まるためであつた。何となれば、彼は、時至れば、羊の群と共に、死ぬ覺悟はしてゐたが、鑛山地方の下嵐江の谷間に隠れ家としてマチヤス・イヒョーヱの家を選び、この家では、主屋に續いて狭い荒屋があつた。彼は、傳道士も従者も、連れてゐなかつた。時に、ヨハネ後藤は、奥州の北方にある、南部の州に追放された。キリシタンの調査は、厳しく行はれ、忠賓なキリシタン達は、仙臺に引かれて,そこで領主の御意を待つことになつた。」(中311)
この時,下嵐江村には60人のキリシタンがいた.彼らはデ・カルバリオの荒屋のとなりに隠れ家を建てたが,役人たちは彼らを見いだし,住み処を荒らした.キリシタンは雪の中,着ている物をはぎ取られた.
「デ・カルバリオ師は、この哀れな様を見て、役人の許に名乗り出で、『私は、この哀れな者達の父ぢや。』といつた。さうして、彼は縛られるやうにと兩手を差出した。神父が召捕られた結果、大勢のキリシタンが返された。師は、例によつて、卒達に飲料を差出させた、そこで修道者として出て行くために、日本の着物を脱ぎ、大小刀を差出したいと言つた。然し、彼は、家老たちの前に差出す方が適當だと悟つた。彼は顱頂を剃りたいと思ひ、數日後頭を剃つて貰つたのであるが、顱頂だけを剃り明けて貰ふことが出来ず、土着の僧侶のやうに丸坊主にされた。」(中311-312)
その年も暮に近付いていた.そこで,デ・カルバリオらの処刑は新年の儀式が済んだ後となり,2月18日(陽暦)と決まった.
その日,天候は雪の混じる寒風であった.
「それは夜の五時のことで、人通りが繁かつた。勇敢な殉教者の指揮者は、その前に、最愛の弟子たちとイエズス・キリストの息子たちを遣はす慰めをもつてゐた。なほ、彼は皆の後に生残り、宛然石のやうに最後まで動かずにゐた、彼の死に立ちあふことを請うた若干のキリシタンたちは、彼が大體眞夜中にやつと息を引取つたと確言した。」
「朝、遺骸は引取られた、それは、これを寸断して川に棄てるためであつた。然し、キリシタン達は、デ・カルバリオ師の首(註八)と、他に四つの首を手に入れることび出來た。」
(中略)
「デ・カルバリオ師は、四十六歳、イエズス會に在ること三十年であるが、彼は、日本及び交趾支那の傳遣に十五年を過して來たのであつた。」
本来,二人の神父の行動は年表としてまとめられるべきであるが,時間軸に押さえられない点が多く,あきらめた.これでもだいたい何があったかはわかるだろう.今後,各種文献を精査することによってまとまってくるだろう,と思う.
なお,パジェスの記述が下劣な日本人とその下劣さから救い出そうとした高貴なキリスト教(カソリック)を強調することによって,客観的な事実は薄められてしまっているので,記述は何割引もして理解しなければならないだろうと思う.たとえば,「クリストフ・フェーレイラ神父(S.J.)」に関する記述を読めば,これは「公平ではない記述だ」と理解できるかも知れない.
以下,クリストフ・フェーレイラ神父(S.J.)についての記述を読んでみよう.
クリストフ・フェーレイラ神父(S.J.)
===1633(寛永十年)===
「十月十八日、長崎でイエズス會の管區長ポルトガル人クリストファル・フェレイラ神父と、イエズス會の日本人神父ジュリアノ・デ・中浦が穴の中に入れられた。又シシリヤ人で、イエズス會のヨハネ・マテオ・アダミ神父、イエズス會のポルトガル人アントニオ・デ・ソーザ神父、聖ドミニコ會の修道士、イスパニヤ人フライ・ルカス・デル・エスピリット・サント神父、イエズス會の日本人ぺトロ修士とマテオ修士、聖ドミニコ會の日本人フランシスコ修士が穴の中に吊された。」
「(中略) 拷問五時間の後、二十三年の勇敢の働き、改宗の無数の果實、聖人のやうに忍耐された無限の迫害と難儀によつて、確固してゐさうに見えたフェレイラ神父が、天主の正しく計り知れない審判によつて、哀れに沈没した。」
「偶像崇拝の徒は、この破滅を喝采すれば、イエズス會では、實に苦い涙を流した。然し、その會員の祈りと、日本の最初の使徒聖フランシスコ・ザベリオの代願は、他の宣教師の犠牲の代價で、精神的に死んだ不幸な背教者を復活させた、クリストファル・フェレイラは二十年後に、その立返りと殉教とによつて、イエズス・キリストの教會と、彼が屬するイエズス會を慰めた。」
「フェレイラ神父は、當時五十四歳で、イエズス會にあること三十七年であつた。」(下254)
===1637(寛永十四年)====
「九月二十一日、午後二時頃、ゴンサレス神父と二人の俗人とを乗せた他の船が着いた。神父は、元氣よく陸に飛上り、十字架の印を切つた。彼は、堂々たる體格で人目を引いた。役人の前に引出され、彼は法廷に、クリストファル・フェレイラ神父と、同じく轉んだ日本人の教師を見出した。」(下300)
四年後,フェレイラはクリスチャン審判の役人として,法廷にいた.
古賀(1940)は皓臺寺過去帳を調べ,沢野忠庵は慶安三年十月十一日(西暦1650年11月4日)永眠を見いだした.生年と比較すると70歳余りとなる.古賀は「沢野忠庵は、決して殉教した者では無く、天寿を全うして病没した」と結論している.