2020年7月22日水曜日

まぼろしの赤山紀行(「赤山紀行」探索記Ⅱ)



 上野(1918)が最初に引用した「赤山紀行」は,

(一七)、寛政十一年(西一七九九、119)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ(ル)

というものでした.これには著者名の記載がなく,わかる情報は1)1799(寛政十一年)年,作者はここを通過した,2)ルートは,オタノシキ川(現:阿寒川)から釧路原野を左に見てクスリ川(現:釧路川)まで,さらに桂戀(桂恋)附近のシヨンテキ海岸(現地名:不詳)附近まで.3)オタノシキ川からクスリ川まで石炭の転石があることです.
 話は繋がっていますが,著者は大楽毛川から釧路川まで,釧路原野を左に見て歩いているわけですから,「今度シラヌカにて石炭を掘りしに…」は過ぎ去ったルートのことを思い出して書いているわけです.4)その白糠では“石炭を掘っていて坑道掘りであること”,“坑道は三百間(約500m)に伸びるが石炭層は続いている”ということです.

 前々回は,児玉(2000)に掲載された「我が国主要石炭鉱業の時代別成立」の図の注の付表…

 「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」

から「赤山紀行」は“谷元旦の著作である”と書いてあると解釈しましたが,前回の山下(2012)から谷元旦が作者である可能性は,ほとんどなくなりました.そういう目で見ると,上記付表の注:34も,「釧路紀行=赤山紀行」とも「釧路紀行≠赤山紀行」とも解釈できます.困ったものです.
 そこで,この「赤山紀行」,喉に刺さった棘のように気になって,気になって…

 ついに「蝦夷蓋開記」のテキストをゲットしました.それは板坂耀子(2002編)の「蝦夷蓋開日記」で,「近世紀行文集成 第一巻」の中にありました.


 結論から言うと,文体は似ているものの書いてある内容はまったく違い,“赤山紀行”は「蝦夷蓋開日記」でも,そこから派生したもの(写本など)でもないようです.文体は当時流行っていた美文調でも,怪しげな漢文でもない,まったくムダがない.また筆者は当時の科学的知識(本草など)の造詣が深いことを物語るような内容です.化石などを採集したことも記録されています.
 さて,クスリ附近の海岸の石炭の様子…

ヲンネツフヨマイの出崎より石門を通り、懸崖絶壁の根より波の打入る洞六ケ所あり。夫より赤壁の間を行。此辺、壁の内壁珀を含む。石炭など多し。名づけて「石炭崖」となす。夫より出崎、浪高く、山路を越て浜へ出。流れあり。ヲソウナイといふ。又、出崎、越がたく山路を廻り浜へ出。石門あり。ヲコツヲ、沢川を経てロクネホツルに至る。

ということで,まったく「赤山紀行」の文章とは異なります.したがって,赤山紀行は元旦の書いたものではないということになりましょう.

 不思議なのは,シラヌカを通過しているのにもかかわらず,この行程の行きも帰りも「石炭窟」についてひと言もないこと.白糠に石炭窟があったとしたら,元旦がまったく触れないというのは,異様としかいいようがありません.本当に三百間もあったという白糠の石炭窟は,この時に存在したのでしょうか.

 なお,この板坂(2002編)には「解題」がついていて,「蝦夷蓋開日記」の概要が示されています.板坂(2002編)時点での「国書総目録」に示されている元旦の著作とされているものは「蝦夷紀行図譜」「蝦夷山川地理紀行」「蝦夷釈明」「蝦夷蓋開日記」「蝦夷風俗図式」の5点のみ.これらの書の内容や相互の関係は不明な点があるものの,いずれも寛政十一年の蝦夷地探検が題材である…寛政十一年といえば…

 江戸幕府が東蝦夷地を直轄とした時代で,北海道史には重要な時代なハズだけど,ここら辺りをまとめた研究はめったに見ない.和人の探検家が大挙してやってきた時代なのに.この時代の登場人物の個々についての伝記などならあるんだけどねえ….いずれ調べてまとめるとして.話を続けることにしましょう.


 

2020年6月27日土曜日

ブンガワン・ソロの謎



 我が師・湊正雄先生は,教室の新歓コンパに参加する時は,いつも途中から「ブンガワン・ソロ」を原語で唄うのが常でした.学生の中には「ニャー,ニャー」としか聞こえないという不届き者もいましたが….

 先生がなぜ「ブンガワン・ソロ」を唄うのか.
 聞くところによると,南方石油の開発に徴用され,帰国時は悲劇的な阿波丸にではなく,危険といわれた軍艦で急ぎ帰国したため,逆に死を免れたそうです.帰国してからはすぐに,当時北海道帝国大学の(いや,日本の)財産とも言うべきデスモスチルスやニッポノサウルスの標本を理学部ローンに埋めたといいます.もちろん,近々起きるであろう米軍の大空襲に備えてのことです.いったいなにがあったのか.湊先生はこの間の記録を一切残していませんので,直接知ることはできません.
 それで,この謎の外堀を埋めるつもりで,この件に関係していそうな資料を集めてはいますが,外堀すら埋まるのはまだまだ遠い話です.

 そこで,気になった一冊.

岩瀬昇(2016)日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか.

 表題では,満洲大油田の話かと思われてしまいますが,そうではありません.また,帯に「昭和15年春,満洲南部 もし,日本が石油を掘り当てていたらーーー」とありますが,そんな小さな話でもありません.これぞ本当の歴史書かと思わせる内容です.

 というのは,われわれが習ってきた歴史というのは,当時の王(政権)や誰と誰が戦って誰が勝ったという,というような中身のない記録ばかりですが,こういう歴史には子どものころから興味が持てなかった.それがなぜか判ったのは最近の話で,それはあまりにも薄っぺらすぎるからです.
 たとえば,「いくさ(戦争)」にしても,A将軍のA軍何万とB将軍のB軍何万が戦ってAが勝った.それでナニナニ政権ができた…は,おかしな記録です.両軍の武器は刀にしろ槍にしろ,これは「金属」です.金属がなければ武器はできない.金属はどうしたのか?.武器がなければ「いくさ」はできないのに,まったく無視されている.「A軍何万」といっても,彼らをどうやって運んだのか.「食い物」はどうしたのか.これも無視.近代戦ならば,軍艦にしろ戦車にしろ,戦闘機にしろ,動かすのは「石油」.これも無視.そういう歴史の疑問に回答をくれるのがこの本.こういう歴史書がどんどん出てくることを望みますね.

 さて,まず驚くのが,戦前の軍人は「水がガソリンになる」という詐欺に簡単に騙されるレベルだったこと.これは無名の軍人ではなく,歴史書であれ戦史であれ,必ず出てくる重要人物(!)がです.軍人を政治に関与させてはいけないという歴史の教訓.
 そして,やがて石油の重要さが認識され始めると,戦争遂行のための石油を確保するために戦争に突入してゆくという,冷静に考えればまったくばかげた状態が「太平洋戦争の実態」.そのために日本人全員が巻き込まれ,ほぼアジア全域の人々を巻き込んだわけです.

 当時,日本国が通常使うような量の石油は北樺太に充分にありました.当時,そこは日本領であったから,技術が伴えば,ほかの土地(他国)にいく必要はありませんでした.もちろん,ロシアが邪魔したことで開発できなかったこともありますが.この北樺太(現在はロシア領サハリンとされている)から,現在日本は大量の原油と天然ガスを輸入しているはずです.
 傀儡国家とはいえ満洲国が成立した時に「満洲大油田」を発見できていれば,南方に向かう必要はなかったのでした.しかし,ここでも未熟な石油開発技術と軍部の無理解にあい開発はできませんでした.もちろん,未熟な石油開発技術自体も日本という国が学問に無理解だったせいですが….
 そして,南方石油開発という名目でたくさんの民間技術者を送り込み,撤退時に起きたのが「阿波丸の悲劇」でした.戦時に,はるか南方から石油を運ぼうという信じられない愚挙,みずからの首を絞めるような行為で,瞬く間に国力を使い果たし….というわけです.海外から石油を運ぶなどということは「平和でなければできない」ことです.日本は「平和憲法を守」らなければ,将来はないわけです.歴史に学ばない人はそれが判らない….

 そして湊先生も,その愚挙に巻き込まれたひとりであったわけです.

 しかし,この本でも湊先生の「ブンガワン・ソロの謎」についてのヒントはありませんでした.とはいえ,大量の参考文献が示されており,ほとんどはわたしの立場では見ることはできませんが,中にはいくつか入手可能なものもあるようです.
 探索は,まだまだ続きます.



2020年6月26日金曜日

谷元旦の著作(「赤山紀行」探索記)



 例によって,資料探索ネットサーフィン中.谷元旦の研究者である山下真由美(鳥取県立博物館)さんの論文を発見.非常に興味深く読みました.

山下(2012)「蝦夷地への派遣―島田(谷)元旦が果たした役割とその成果ー」より

 山下さんによれば,谷元旦(島田元旦)の著作は以下の通り.
①『蝦夷蓋開日記』(えぞふたあけにっき:俗に『元旦日記』)
②『蝦夷釈名』【写本】
③『東蝦夷紀行(蝦夷奇勝画稿)』(以下、『画稿』。個人蔵)三巻【自筆】
④『蝦夷山水図巻』(四巻、北海道立近代美術館蔵)【自筆】
⑤『蝦夷地真景図巻』(二巻、個人蔵)【自筆】
⑥『谷文晁奥羽游歴写生模本』(二巻、東北大学附属図書館蔵)【写本】
⑦『蝦夷器具図式』(一冊、個人蔵)【自筆】
⑧『蝦夷器具図巻』(一巻、北海道立近代美術館蔵)【自筆】
⑨『蝦夷風俗図式』(一冊、個人蔵)【自筆】
⑩『蝦夷国風図式』【写本】
⑪『毛夷武餘嶌図』(一幅、個人蔵)【自筆】(【図32】)
⑫『蝦夷草木写真』(一冊)【写本】

 ここで,【自筆】,【写本】と区別があるのは,「自筆」であれば,書名としてそのまま通用できますが,「写本」の場合は写した人の気分で「別名」になっている場合が多々あるためですね.

 さて,困った事に「赤山紀行」がどこにもありません.
 以上終了…というわけにもいかないので,詳しくみてみることに.

 ここで③以降は「画」中心のいわゆる“お宝”で,わたしの立場では一見するのも不可能ですね.といって“お宝”ですから,たとえ画集として公刊されても,まあ手は出ないでしょう.蝦夷地の地質に参考になる画があるのかないのか,今後の成り行き次第.

 テキストとして,わたしにも見ることができそうなのは①と②のみ.②は和語とアイヌ語を併記した“和夷辞典”のようなものだといいますから,たぶん(実際に見てみるまでは判りませんが)候補から外してもいいでしょう.

 問題になりそうなのは①です.
 ①は「寛政十一年三月二十一日に江戸を発し,七月二日に厚岸に到着後,九月二七日に江戸に帰着するまでの道中を毎日記した紀行文」とありますから,ものすごく可能性が高い「もの」です.実際に,これの解説には「文末には「東都 谷元旦記」と記されるが自筆本は未だ見つかっていない。『蝦夷蓋開記』、『蝦夷記』、『蝦夷日記』、『蝦夷紀行』、『蝦夷地紀行』、『蝦夷秘録』等多くの別名があり、管見の限りで二十冊近くの写本が確認でき、おそらくもっと多くの写本が全国に所蔵されていることと思われる。」とされています.問題になっているこの「蝦夷蓋開日記」は「函館市立中央図書館本を定本とした翻刻」を収録した『近世紀行文集成 第一巻 蝦夷篇』(板坂耀子編、葦書房、2002年)によるもので,原著になんと題してあったかは,じつは不明なのです.写本に「赤山紀行」とあった可能性もありますし,元旦自筆の書に「赤山紀行」とあった可能性もあることになります.

 さて困りましたねえ.どうしましょう….
 とも,云ってられないので,再度「赤山紀行」が引用された経緯から整理することにしますか….


①上野(1918):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述「寛政十一年(西一七九九)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ」

②作者不詳(1931):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).後注に「昭和六年七月刊行の『北海道炭砿港湾案内』の冒頭に引用されているが、筆者不詳。」とある(⑤児玉,2000参照).

③山口(1934):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述「北海道に於ては1797年に釧路で發見*1され「赤山紀行」に次の如く記されてゐる。「寛政11年オタノシキ川より左に原を見て行けば原愈廣くクスリ川迄は皆原なり。此の附近石炭あり。又柱戀(「桂恋」の誤記)の附近なるシヨンテキ海岸には磯の中にも石炭夥しく,總べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり。」」
*1 この文章では,「北海道の石炭は1797年に発見された」と読めるが,上野(1918)と読み比べれば,赤山紀行を書いた著者がその附近を通ったのが「寛政十一年(西暦1799)」であり,それは発見年ではない.

④山口(1935):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述以下
北海道に關しては赤山紀行に次の如き記事が見えてゐる
寛政十一年(邦紀二四五九,西紀一七九九)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと言ふ

⑤児玉(2000):谷元旦(1799)「蝦夷紀行」および不詳(1799)「赤山紀行」:児玉(2000, p. 60-61)に
「旅行の禁が解けてすぐこの年、東蝦夷を旅した人々は幾つかの紀行文を残しているが、その中に石炭の記事がある。幕府の小石川薬園を管理していた渋江長伯に従って、この地方を旅した谷元旦(画家谷文晁の弟)の『蝦夷紀行』六月二十四日の条。
「此の浜邊平にしてしめりよし。歩行も易し。石炭など、この邊より出づる。尤も上品なり。光黒くして滑澤あり。」
 その前二十日から二十三日まで白糠に滞在して二十四日出発。大楽毛川を越え釧路への道中だから、この石炭産地は白糠石炭岬(シリエト)のものと分かる。
 また、同年の「赤山紀行」(昭和六年七月刊行の「北海道炭砿港湾案内」の冒頭に引用されているが,筆者不明)。
 「オタノシキ川より左に原を見て行けば、原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり。この附近石炭あり。桂戀の附近なるションテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総てトカチ嶺よりクスリ嶺までのうち、山谷海邊とも石炭なり。今度、シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども石炭豪も盡くることなしという。」

⑥大場・児玉(2011):児玉(2000)より「図-1 我が国主要石炭鉱業の時代別成立」を引用.図の説明(表-1 我が国石炭鉱業の推移)に「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」と記述.なお,児玉(2000)の図には釧路地域において,「27.天明元年(1781),松前広長『松崎志(松前志の間違いか?)』,釧路より出づ。石炭紹介。」とあり,谷元旦より前の記録になっている.


 タイムラインから見れば,書名「赤山紀行」としているものは,記述内容が同じであるところを見ると,各論文はみな①を引用している可能性が高いように思えます.
 また,「赤山紀行」は谷元旦の「蝦夷蓋開記」の別名写本の可能性が浮かび上がってくるかと予想したのですが,児玉(2000)は別物として扱っています.児玉が両者の実物を読んでいるのだとすれば,「赤山紀行」は谷元旦の著作の別名という仮説は崩れます.

 この後は,「蝦夷蓋開記」をなんとか探し出して,全部読んでみるしかないですねえ….



2020年6月23日火曜日

手塚治虫の山




物心ついた頃から知っている漫画家=手塚治虫.
昨日ゲットしたこのマンガ集は「山」をテーマにしたもの.

手塚治虫が生涯発信し続けた「生きる」ことの尊さ。
山・自然・動物をテーマに描かれた手塚漫画の傑作アンソロジー

だそうです.
何といっても圧巻は「三松正夫と昭和新山」を題材とした「火の山」.たった一人の男と火山との戦い.そして火山を無知から護るための戦い.

ワクワクしながら読みました.

ところで発行日が今年の七月一日….まだ来てないんですが.(^^;
 

2020年6月16日火曜日

「赤山紀行」探索



 ガワーについての文献散策中.自分の書いた「北海道・地質・古生物」の「蝦夷地,最初の炭鉱 pt. 1」がヒットしたので読み直し.そこにあった「シラヌカ」の「石炭掘り」についての記述を読み直し.そこで「赤山紀行」なる文献を思い出しました.

 それは,以下の文.

「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」
 この「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されていると児玉清臣「石炭の技術史」にありますが,詳細不明です.
 そもそも「北海道炭砿港湾案内」そのものの存在が確認できないですし,「赤山紀行」の存在も確認できません.著者も不詳.

ということだったんですが,そう言えば「赤山紀行」についての探索は放置状態のままでした.
 「北海道炭砿港湾案内」は10年たった今も,日本の古書店ですら見つからず.Googleにも引っ掛からず.
北大図書・北方資料データベースに「北海道炭砿港湾案内」も「赤山紀行」もなし.
国立国会図書館Dコレクションに「北海道炭砿港湾案内」も「赤山紀行」もなし.
CiNiiにもなし.
万事休す.

 まあ念のためということで,J-STAGEで「赤山紀行」を検索.
上野景明(1918)明治以前に於ける北海道礦業の發達
山口彌一郎(1934)炭礦聚落の漸移性
山口彌一郎(1935)炭礦民俗誌稿
がヒット

 順番にチェック.
 上野(1918)には,「赤山紀行」は旧記のリストに「(ル)赤山紀行」として載っていて,これは本文「(一)北海道鑛業沿革年表」の「(一七)、寛政十一年(西一七九九、119)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くク スリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ(ル)」として引用されています.
 残念ながら,著者名の記載はなし.

 続いて,山口(1934)では,上記と同様の文が引用されていますが,こちらも引用文献としての記載がなく,著者名は不明.
 さらに,山口(1935)では,二ヶ所に引用.上記と同じ文章が記載されているも,これも引用文献としての記載無し.

 なんとまあ,時代が古いせいか,文系研究者の習いなのか,引用している文献が明示されていないのですね.ダメかな.

 というとろで,駄目元で再度「赤山紀行」でググってみました.やってみるものです.そうしたら,大場・児玉(2011)「戦前期石炭鉱業の資本蓄積と技術革新(一)」が引っ掛かりました.そこには児玉(2000)に掲載された「我が国主要石炭鉱業の時代別成立」の図に引用された文献として載っていました.
 それによれば…
 「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」
とあります.

 !.なんと,著者は「谷元旦」でした!.
 谷元旦については,ウィキペディアでも参照してもらうこととして,簡単に説明すると,谷元旦は超有名な絵師「谷文晁」の実の弟.養子に行って「島田元旦(しまだげんたん)」を名乗ります.文晁の弟だけあって元旦も絵が得意.円山応挙の弟子でもありました.
 しかし本業は鳥取藩士.「寛政11年(1799年)松平忠明が蝦夷地取締御用掛として蝦夷地警備に赴いた際、蝦夷地の産物調査の一員として同行した。元旦の一行は植物調査を主体としたもので、幕府奥詰の医師で薬園総管を兼ねていた渋江長伯を隊長としていた。元旦は絵図面取りを担当し、蝦夷地各地の実景、植物、鉱物、アイヌ風俗を北海道の太平洋岸一帯で、4ヶ月に渡って調査した。(from ウィキペディア)」

 絵の得意な元旦は記録係として随行したものでしょうね.
 じつは,谷元旦は地質学界では有名な人物でもあります.当時の蝦夷地(北海道)のスケッチをいくつも残していて,その中には有珠山の当時の姿なんかもあります.1977年噴火前の姿をとどめる貴重なスケッチでありました.




 しかし,残念なことに「赤山紀行」そのものは,どこにあるものなのか,まったく判りません.まあ,見つかったとしても,超有名人の著作ですから,入手は不可能だと思いますが…

2020年3月11日水曜日

北海道における石灰岩研究史(9)


北海道における石灰岩研究史(9)

まとめ

 日本には江戸時代の末期に,すでにほぼ完成した地質学が,この蝦夷地に入ってきました.すぐに使える地下資源の調査が要求されていましたが,それは無知な政治家のむちゃな要求でした.ただでさえ,未開の北海道は簡単な調査すら,たくさんの神々=自然が拒む世界でした.にもかかわらず,ライマンはピンポイントの「資源調査」,北海道全体の概査「全道地質図作成」,くわえて「後継者の育成」までやってのけています.

 本来ならば全体の概査から有望地の選定,そして精査とすすむべきでしたが,当時の日本人には,最先端西欧科学技術である地質学への理解は,…なかったわけです.日本では政財界の要求するピンポイントの「資源調査」から入り,技術者および技術の理解者の増加をまって「地質調査」が始まるというパターンを取っています.現在でも,しばしば見聞きすることですが,「金メダルを取れる選手の育成」とか,「ノーベル賞を取れる学者の育成」とか,現場を知らない無知な政治家,お金しか頭にない財界の言い分ですね.
 そのような優秀なスポーツ選手,優れた学者を生み出すつもりなら,そのような「お役所視点」から,国民全体にすそ野を広げる「研究・教育視点」に軸足を移動する方が,結局目的地には早く着くんだと思いますがね.

 さて,近代地質学誕生の地(といわれる)英国では,資源開発や土木工事を進める中で,近代地質学が構築されてきたといわれています.それまでは,貴族や有閑階級のお遊びとしての「自然学」が中心でした.そこでは「地層累重の法則」とか,「(化石による)地層同定の法則」とか,観念的にではなく,現場で確認されてきたのでした.
 こういった法則は近代地質学の根本法則とされてきました.ところが,江戸時代末期から明治時代始めにかけて蝦夷地(北海道)に輸入されてきた「近代地質学」は,輸出先の蝦夷地で大変な試練にあいます.「地層累重の法則」や「地層同定の法則」は限定的にしか適用できないことが,昭和時代末期に明らかにされ地質学・層位学に激震が走りました.
 そして,この地の複雑な地質を解釈するために「付加体地質学」という現代地質学が誕生したのでした.

 以上.「北海道における石灰岩研究史」を終わります.
 なお,引用文献に関しては,とくに示しておりません.理由はいろいろです.あしからず.


2020年3月10日火曜日

北海道における石灰岩研究史(8)


北海道における石灰岩研究史(8)

当麻の石灰岩群
 藤原・庄谷(1964),鈴木ほか(1966)は当麻・愛別地域において,先第三系を先白亜系(日高累層群)と未分離白亜系に分け,先白亜系を「愛別層」と「当麻層」,未分離白亜系を「開明層」としました.そのうち,石灰岩を含む地層は当麻層で一括されています.鈴木ほかは当麻層は「空知層群の一部に…対比できそうである」としています.石灰岩は,顕著なものは熊の沢岩体(北隣の愛別図幅内),三丿沢岩体(当麻鍾乳洞を含む),小沢岩体(牛朱別川支流小沢沿い),椴山岩体(牛朱別川支流石渡川沿い)と呼ばれ,四ヶ所あります.
 1975年,橋本亘等は椴山岩体からペルム紀の紡錘虫と三畳紀のコノドントを報告しました(橋本ほか,1975英文).椴山岩体は地層の累重関係は以下のように示されています.

  火砕岩……………………………………………………………………………10m
  琥珀色塊状チャート……………………………………………………………20m
  含ペルム紀紡錘虫灰色石灰岩…………………………………………………2m
  塊状チャートと粗粒砂岩の互層………………………………………………180m
  含後期三畳紀コノドント石灰岩レンズを挟んだ黒色頁岩とチャート……10m
  塊状チャートと火砕岩類………………………………………………………30m

 ペルム紀石灰岩は紡錘虫のほかに石灰藻,小型有孔虫,苔虫類を含んでいます.紡錘虫類として見いだされたものは以下の通り.

  Nankinella cf. inflata (Colani),
  N. spp.,
  Staffella sp.,
  Reichelina sp.
  Schubertella (?) sp.

 これらの化石群では確定的なことはいえませんが,Reichelinaの存在から,上部の中部~上部ペルム系を示していると橋本らは結論しています.

 一方,三畳紀石灰岩は3m以下の厚さで,Batostomella様苔虫類と石灰藻を含みます.見いだされたコノドントは以下の通り.

  Palagondolella polygnathiformis (Budurov and Stefanov)
  Xaniognathus tortilis (Tatge)

 P. polygnathiformisはラディニアン階~カーニアン階の示準化石であり,おなじ群集はすでに猪郷ほか(1974英文)によって比布町の突哨山石灰岩から報告されています.当麻層はペルム紀と三畳紀の石灰岩を含み,その下部は(日高層群に属するとされる)愛別層を整合的に覆っていると考えられていますので,いわゆる日高層群とされる各地の地層は再検討されるべきだと橋本らは主張していました.そして,再検討が始まります.

 北海道のあちこちで再検討がされましたが,それを全部追いかけるのは大変なので,上川盆地・当麻・比布地域の石灰岩を中心に歴史を追います(本当は道南地域もやりたいのだけど,力尽きたので別の機会に(^^;).

 加藤幸弘は1983年度の卒業論文として当麻周辺の先第三系の層序を再検討しました.その結果とその後の追加調査の結果は,加藤ほか(19841986),Kato and Iwata (1989)として報告されています.すでに,“日高累層群”が分布するといわれたあちこちの地域から,様々な時代の化石が報告され,整合で累重するとされた地層同士の関係も,ほとんどが断層であるとされる時代に入っていました.
 当麻地域でも,当麻層中の石灰岩からペルム紀の紡錘虫,三畳紀のコノドントが発見され,当麻層は1)ペルム紀から三畳紀にかけての堆積物であること,2)全体として開明層,当麻層,愛別層の順に整合的に累重していると考えられていました(Hashimoto et al., 1975;橋本ほか,1975)が,多くの地域で石灰岩から産出する化石とその基質/母岩からでる化石とは時代が異なることが指摘されはじめていたのです.
 当麻地域の再検討でも,各地層はブロックとして断層で接触しているとされました(そう考える方が判りやすい,そう考えないと理解ができないということでしょうけど).そして,開明層の頁岩からは白亜紀後世(Early Cenomanian)の放散虫が産出し,当麻層からは橋本らが報告した中~後期ペルム紀の石灰岩,三畳紀(Late Ladinian ~ Carnian)の石灰岩のほか,(加藤ほか,1986の)TC1(チャートと石灰岩の互層)からジュラ紀末(Kimmeridgian~Tithonian)の放散虫,TC2(淡緑色頁岩)から白亜紀前期(Valanginian~Hauterivian)の放散虫,TC3(黒色~琥珀色層状チャート)からは三畳紀後期の放散虫が産出したとされています(加藤ほか,1986).一方,加藤らが“当麻層の泥質基質”と考えている資料からは,白亜紀前期(Barremian ~ Aptian)の放散虫が産出し,これより古い岩体は全て「異地性である」と結論しました.つまるところ,これらは「地層」の概念には当てはまらず,「地層」とよぶことはできない.そこで,加藤らは“当麻層”を「当麻コンプレックス」と呼ぶことを提案しました.

 Kato and Iwata (1989)では,さらに鷹栖方面に調査範囲を広げて,三つのゾーンに分け,おのおのゾーンでの発達史を構築しました.ゾーンⅠの鷹栖町地域ではすでに示したオルビトリナ石灰岩(アルビアン階)が報告されていますが,加藤らはそれを見いだせなかったようです.そして,その基質である鷹栖層の頁岩は放散虫化石の産出から当麻地区の“開明層”と同時代のセノマニアン階であるとしています.そして,これらの現象はオリストストロームにほかならないと結論しました.


加藤・岩田の三帯区分.
元図はあまりにも見にくいので,編集し直したかったが,
読み取り不可能な地層区分が多く,納得がいかないがご容赦.


加藤・岩田の「比布ー当麻地域の先第三系層序再編図」.
凡例の説明文が欠けているので推測.


 しかし,オリストストロームであるという解釈だけでは,三つのゾーンに分ける意味が不明です.推測するに,たぶん,遠く離れた堆積盆中に堆積した地層が多くの地殻変動を経て,現在たまたま接して同じ地域にあるのだ,と言いたいのでしょう.これはのちの「付加体地質学」に繋がっていくのだろうけど,この時点ではまだ明確に言われていません.
 また前期白亜紀の地層になぜこんなにオリストストロームが多発するのかという点に関してもなにも触れられていませんでした.

 こういったことで,古生層とされてきた“日高層群”は再編され,「地層」ではなく,「異地性岩体」より構成された「複合岩体」として扱われるようになってきました.
 と言う説明でなんとなく納得がいくかと思いますが,困ったことが生じます.ある地層から地質時代を示す化石が産出したとしても,その化石がその地層の時代を示しているとは限らない,ということです.また付加体として,遠くから運ばれてきた地質体が上下関係もバラバラに近接しているということは,地質学が科学として成立した時代から基本法則として信じられてきた「地層累重の法則」が成立しない,ということを意味しています.
 また,そのようなことがあるんだったら,化石で地層の時代を決めるということも限定付きということになり,地質の研究は大型化石・微化石・物理年代測定などなど,あらゆる研究者が必要なビッグサイエンス化せざるを得ない時代になったということでしょうね.

(つづく)