●奮記
○1191(建久二)年:シリウチ砂金を發見す.○1604(慶長九年正月):暮府,松前藩に金山を賜ふ.
○1608(同十三)年:幕臣・大久保長安「シリウチ」の金を開採せんとす.松前藩辭して曰く,不毛の地,糧を他邦に仰ぐ,坑夫を養ふ可らずと.遂に止む.
○1917(元和三)年:東部楚湖「オーサワ」の兩山砂金を出す.
○1620(元和六)年:松前公廣,砂金一百兩を慕府に献す.慕府,金山及其金を公廣に賜ふ.後,諸国の坑夫來て,砂金を淘汰する者多く,年々獲る所亦夥し.皆三十分一の冥加を松前藩に納む.是に於て,諸物價皆砂金量目を以て稱するに至る.
○1631(寛永八)年:西部「シママキ」に砂金,アカガミ山に白銀を産す.
○1633(寛永十)年:松前藩東部サルル及シピチャリ金山を檢し,仝十二年,始めて「トカチ」連山兩所に採金の業を開く.
○1671(寛文十一)年:酋長「シャクシャイン」,坑夫庄太夫と與に叛す.坑首文四郎,坑夫三百餘人を率井て,松前の軍に歸す.爾後其業を禁ず.土人,大に利を失ひ,松前藩亦其収入を減ず.
○1685(貞享二年三月):「ソーヤ」より金石を出す.
○1690(元禄三)年:ハポロ,濱砂金を出す.松前藩より吏員を遣し採集洗淘せしむるヿ七八年,其間毎年得る處の量百目或は二百目とす.
○1713(正徳三年十二月):松前家臣下國要委,藩主に告て曰く渡島エサシ,ササヤマ鉛鑛採掘一日鉛塊五十個を得,半は渣滓に屬するも,其得る處二十五貫目に至り,白銀亦多く含有すと.
○1721(享保六年):東部「シビチャリ」より砂金を出す.
○1736(元文元年十一月):板倉源次郎,松前藩本領分界圖を製し,松前領外所在の金鑛を慕府に告く.仝十二月,慕府,源次郎に松前金銀山掘採を命ず.源次郎,採鑛人夫を南部領に募り「マツマイ」に到る.
○1737(元文二年):幕府金座,後藤庄三郎を「ソーヤ」に遣り,砂金を探討せしむ.遂に得ずして歸る.
○1738(元文三年二月):幕府,松前藩に命し,金銀産出の量を檢せしむ.
○?(寶徳十三年八月)(1763;宝暦13か?):カミノクニ銅山を試掘し,後,之を廢す.
○1766(明和三年五月):幕府,中村安右衛門に「マツマイ」金山掘採を命し,小人目付二名を屬し「マツマイ」に遣る.安右衛門センゲン岳金鑛及ユーラプ鉛山を踏檢掘採す.収支償はざる理由を復命し,事遂に止む.仝十一月,渡島國エサシ村某,従來掘採の豐部内鉛山,鑛脈減せしを以て,更に蝦夷地ユーラプ鉛山,明年より十ケ年間を期し,出産額十分の一の冥加を以て掘採を松前藩に請ひ許さる.
○ 1767(明和四年八月):松前藩近藤權九郎,アカガミ村産鉛,目方一貫六百目より九百目に至る鉛盤四枚を藩主に致す.
○1799(寛政十一)年:幕府,又委員を派し「シビチャリ」銀山を試掘す.其結果詳ならず.
○1842(天保十三)年:「ハコダテ」商某,始て「エサン」の硫黄を開採す.
○1846(弘化三)年:「ハコダテ」商某,エサン硫黄を掘採し,嘉永元年に至て止む.
○1855(安政二)年:村民之を請負掘採す.「子タナイ」(今カメダ郡シリキシナイ村支村)村民「トドホッケ」銀鑛及銅鑛を開發し,后,廢す.「ハコダテ」奉行所,「フルベ」「カククミ」山松大澤等の銀鑛試掘に従事す.「ハコダテ」某「カククミ」「ショージンガワ」鉛鑛を開發す.函舘奉行竹内保徳,コブイ(今シリキシナイ村)海濱の鐵砂を檢査し,熔鑛爐反射爐を築き,大砲鑄造を幕府に請ふて製煉す.又,フルペ山黄土石黄を掘採す.「オサッベ」村「カククミ」川の砥石,「カククミ」の硯石等を開發す.幾もなくして皆廢す.
○1856(安政三年三月):慕府,イチノワタリ山鉛鑛を採掘す.砂鉛五分銀二分を含有す.後,之を廢す.
○1856(安政三)年:「ハコダテ」商某請て「エサン」硫黄を掘採す.坑夫二十人乃至三十二人を役し,毎月に得る所,製品百石餘.
○1856(安政三)年:幕府始めて釧路オソツナイ石炭を掘採し,幾くもなくして止む.
○1857(安政四年四月)年:慕府,先きに開發に着手せるユーラプ山銀鑛,利益少なきを以て止め,更に其鉛鑛を開發す.世俗賽の目鉛と名け,最上品を出す.鉛千分の中四分の銀を含有す.
○1858(安政五年):硫黄販路未た開けず.「ハコダテ」産物曾所,精製硫黄を百石價金一百兩にて買上げ,之を諸方に轉買す.
○1858(安政五年三月):函館奉行屬吏・鈴木尚太郎,イワナイ硫黄を發見し,文久元年,始て試掘す.其量一年凡そ五百石目に下らず.
○ 1859(安政六年五月):佐渡金工等來て,東部クンヌイ山砂金を洗淘す.一人一日得る處九分より一匁に至る.幾なくして止む.
○ 1859(安政六年):曾津藩シャリ郡シレトコ山字「イタシベウニ」,硫黄開採に着手し,慶應三年遂に廢止す.
○1861(文久元)年:物價騰貴.硫黄製造収支償はず.百石價,金百六拾兩と定む.是歳,幕府地質學者米人「ブレーク」「パンペレー」二人を聘し,蝦夷地鑛物開採を圖る.
○1862(文久二年五月):「ブレーク」「パンペレー」に官吏・學生・譯官等を屬し,「カククミ」金鑛,クンヌイ金鑛,イチノワタリ鉛鑛,ユーラプ鉛鑛,コブイ鐵鑛,シベッ炭坑,ヤムクシナイ油井等を點檢し,「ユーラプ」鉛山に火藥を用ひ,岩石を破碎す.
○ 1862(文久二年七月):「イワナイ」「ポロベッ」「タルマイ」等の硫黄を精製し,物産曾所に買上け,大坂及江戸曾所に廻送し,餘は「ハコダテ」地方に販賣す.
○1863(文久三)年:硫黄精製品價格,百石に付き四拾兩を加へ,二百兩とせんと請ふ.聴さず.更に令して,年々税金若干分,硫黄五拾石を納る者は石數の多寡を問はず掘採を許す.
○1866(慶應二)年:「ハコダテ」藥種商コブイ硫黄を開採す.
○1867(慶應三)年:エサン硫黄収支償はずして掘採を止む.
○1867(慶應三)年:函舘奉行官吏「イワナイ」「カヤノマ」石炭發見を幕府に報ず.幕府,英人「ガール」を派して,海岸より炭山に至るの道路を開き,官舎を築き,以て其坑を開かしむ.(以上舊記の部,北海道志幷開拓使事業報告等に依る)
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