2020年10月8日木曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のは)


バリックパパンの戦い・中村利光氏の場合


 続いて,中村利光氏による「大東亜戦争従軍記=下級兵士が命がけで見たボルネオ島=」を紹介しよう.



中村利光氏「大東亜戦争従軍記」


 この本は,ボルネオ島周辺を行軍した一兵士の手記を,ご子息の喜一氏がアマゾンからネット出版したものである.バリクパパン戦の頃,中村利光氏はボルネオ島を縦断しているが,バリクパパン戦とはニアミスではあったが参戦していない.しかし,利光氏の残したノートに挟まれていた太田垣正純氏のバリクパパン戦記を喜一氏が転載している.

 「大東亜戦争従軍記」はネット出版であり,ご子息個人編集の限界があり,ワープロ誤変換と思われる誤字が頻出し,意味のわからない単語も散見される.誤字でないならば,脚注が欲しいところである.また,現代日本人には馴染みのない地名が頻出するので,ボルネオ島周辺の地形図が欲しいし,行軍であるから日付の入ったルートマップも欲しい.編集者が介在しないネット出版の限界であろうか.それでも,正史に疑義を唱える現場の記録が残されているのはありがたいことである.

 ノートに挟まれていたという太田垣正純氏の手記は,昭和30年代の「雑誌に寄稿」されたものと記述がある.

 要約すると…


 昭和20年も6月に入ると,連合軍の南ボルネオ地域への空襲は,日を追って熾烈となってきた.はじめは数編隊にすぎなかったが中頃には2~300機の大編隊となり,やがて海上には機動部隊も目につくようになっていった.

 日本軍もバリクパパンの港に,水際作戦を立て,約五千名の兵を配置していた.しかし,それまでには,以前配置されていた海軍三八九航空隊は連合艦隊に転属し,バリクパパンの飛行場からは撤退し,航空兵力は存在していなかった.対空火器も十二糎以下の対空砲,二十五粍機銃が配置されていただけで,圧倒的な連合軍の攻撃には打つ手がなかった.

 そして,七月一日未明.

 連合軍数百機の大編隊による猛爆撃が一時間ほど続き,わずかな静寂のあと,さらに激しい艦砲射撃と空爆が続いた.やがて静かになると…ヤシの木はもちろん,日本軍の対空陣地,飛行場,その他施設は跡形もなく粉砕され,山容すら一変していた.

 連合軍艦隊からは,多数の上陸用舟艇が波をかき分けて接近する.日本軍からは小銃による散発的な抵抗があったが,それは集中的な艦砲射撃を呼び覚ます結果となり,やがてそのわずかな抵抗も止んだ.

 日本軍は為すところもなく,海岸より撤退してジャングルへと移動せざるを得なかった.日本軍はサマリンダ街道の「転戦」と称したが,これは約一ヶ月半に渡る飢えと病との戦い,のちにいう「地獄街道」の旅の始まりであった.

 地獄街道での転戦中,日本兵は敗戦の報を聞いた.しかし,地獄はこれで終わりではなかった.敗戦後も,食料も薬品もない現地収容所生活が続き,さらに多くの日本人の命が奪われた.やってきた連合軍兵士からは,わずかにもっていた腕時計などの金品を奪われ,いい加減な軍法会議のために,多くの元兵士が連れ去られた.残された元兵士が母国の地を踏むのには,さらに一年ほどの時が必要だった.

(続く)


2020年10月7日水曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のろ)

バリックパパンの戦い・三宅健次氏の場合


 まずは三宅健次(1997)「ジャングル無宿」から,バリクパパンの戦いの概略を見てみる.この著も個人的な経験が主であり,主な出来事の時系列を追っているわけではない.タイムラインも前後するので組直しが必要.それをやってみる.


ヨーロッパ戦線

1943(昭和18)年9月8日:イタリア,降伏.

1945(昭和20)年5月7日:ドイツ軍降伏.ヨーロッパ戦線終了.


北太平洋戦線

1944(昭和19)年7月:米軍,サイパン島占領.

      同年10月:米軍,フィリピン・レイテ島進行.マッカーサー,「帰還」.

      同年11月:B29,日本本土爆撃.

1945(昭和20)年2月:米軍,硫黄島上陸.一月半後,硫黄島玉砕.

      同年4月1日:米軍,沖縄本島上陸.6月,沖縄完全制圧.


南洋戦線

バリクパパン防衛要因『戦時回想録』

南ボルネオ会、昭和52年発行より


1945(昭和20)年5月1日:連合軍,ボルネオ東部タラカン島襲撃.

      同年6月15日:連合軍,バリクパパン空襲開始.

            :連合軍艦隊,三十数隻,バリクパパン沖に集結.

 連合軍はバリクパパン・クランダサン地区に上陸を決定.

  オーストラリア第七師団本体:21,635名

  オーストラリア陸軍支援部隊: 7,698名

  オーストラリア空軍:     2,052名

  アメリカ.オランダ軍部隊:  2,061名


      同年6月15日:日本バリクパパン守備隊,千早作戦発動.

 6月15日より,連日の空襲,艦砲射撃開始.7月1日までの20日間で,バリクパパン市街地とマンガルまでの海岸に投入された弾薬は以下の通り.文字通りの雨霰の如くである.

  爆弾         :3,000トン

  ロケット弾      :7,361発

  巡洋艦・駆逐艦の砲弾 :38,052発

  小口径砲弾      :114,000発


      同年7月1日:午前7時.連合軍,上陸作戦開始.



サマリンダ街道


 さて,「千早作戦」とはなんであろうか.この三宅氏は下っ端なので作戦の内容は判らないとしながらも,隊長・山畑主計大尉の言葉として「諸君は,ただちに所定の行動に移る.まず,書類を今日中に焼却する.諸君の武運長久を祈る…」と記録している.

 千早作戦の内容は書かれていないが,鎌倉時代に楠木正成が金剛山一帯に築いた城塞群の一つに千早城という城があり,これら城塞軍が攻められた時に100日にわたって籠城戦を繰り広げたという.この故事から,籠城戦のことをさすものと思われる.

 実際に,三宅氏は約三週間に亘る重爆撃・砲撃の中,この戦場にとどまっている.日本兵には,一度爆弾の落ちた場所に「二度目はない」というジンクスが伝わっていたそうだが,そのジンクスが破られるほどの猛爆撃であったにもかかわらず.

 一方で,食料・医薬品を分散させるために,サマリンダ街道を北上する兵隊もいた.バリクパパン市街地が壊滅状態になって「転進」とよぶ後退が始まるが,あまりにも連合軍の攻撃が凄まじかったため,食料や医薬品の輸送も,傷病兵の輸送もままならず.サマリンダ街道は別名「地獄街道」と呼ばれるまでになった.地獄街道の話は省略したい.

 連合軍が上陸を開始する前夜・6月30日の夜,不気味な色をした月食であったという.

(続く)

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三宅健次(1997)ジャングル無宿(1~6).

太平洋学会誌,19巻3/4号,7-25;20巻1/2号,35-56頁;20巻3/4号,25-41頁;21巻1/2号,25-49頁;21巻3/4号,11-17頁;22巻1/2号,11-24頁.


ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のい)

(* 長くなりすぎたので,分割しました)

バリックパパンの戦い・我が叔父の場合


 子どものころ,わが家の二階に父方の祖母のキク婆ちゃんが住んでいた.物心ついた時にはキク婆ちゃんがいたので,いるのが当たり前であった.だが,よく考えると我が父は三男坊.近所で主婦の店を経営していた長男がいたにもかかわらず,婆ちゃんは三男坊の家に同居していたことになる.


キク婆ちゃん


 お婆ちゃんの部屋には,大きな仏壇があり,長押には三枚の写真が掲げてあった.一枚は,わたしが生まれるひと月前に亡くなった爺さんの写真であり,二枚目はなぜかキク婆ちゃん.三枚目には軍服を着た若者の写真があった(キク婆ちゃんは,わたしが中学生のときに長男の家に引っ越し,その時に全財産を持っていったが,その家で亡くなり,写真を含めて一切はどこへ行ったのかわからない).


 若者の名は「守」,キク婆ちゃんの四男坊,わたしの叔父にあたる.叔父は太平洋戦争中にボルネオ島バリクパパンで戦死した.昭和20年6月29日没.二十歳であった.

 最近になっての話である.惚け始めている我が母の脳内の記憶が,なにかの拍子に蘇ったのかもしれない.むかしの話をポツリといった.ある日,叔父の戦友という人がわが家を訪れ,キク婆ちゃんに守叔父さんの戦死について報告にきたという.連合軍の猛攻の下,「お前たちは逃げろ.俺は残る」,それが叔父の最後の言葉だったと,その戦友は涙を流しながら語っていった,と.

 叔父の話はその時初めて聞いた.わが家の墓石の横に「守徳院釈智成信士 同守行二十才」「昭和二十年六月二十九日於南ボルネオバリックパパン戦死」とあり,叔父が戦死したことは理解していたが….この墓はキク婆ちゃんが昭和二十八年五月に建てたものであった.この当時からかなり傷んだので,現在は亡き父が改装し,もう少しこじんまりとしたお墓になっている.


キク婆ちゃんが建てたお墓
(わたしが小学生当時の写真)


 バリクパパンといえば終戦間際の大激戦地.ボルネオ島の石油基地であった.「石油の一滴,血の一滴」といわれた当時,大日本帝国が石油を求めて進出した赤道直下の島の一つである.湊先生が軍属としていったスマトラ島と同じ背景を持つ.終戦直前の湊先生の行動を追うには,その背景としてバリクパパンの戦史を追ってみるのも,無駄ではないであろうと思う.そして,叔父の戦死の前後についてもなにかわかるかもしれない….


 ボルネオ島バリクパパンに関する戦記はいくつかでているようであるが,個人的な記録ばかりで,全体的な流れや概要を明示した戦史戦記は見当たらない.イヤ,単に見つからないだけかもしれないが.

 足立巌・ボルネオ島バリックパパン思い出の会戦記編集部(1995)「バリックの空は赤く燃えて」は446頁にわたる大著であるが,多人数の個人的な思い出を集大成したもので,通しの視点がなく,なかなか消化が困難なので後回しとする.

続く…


2020年9月12日土曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:1)



 湊先生の南方油田調査の背景を知りたくて,関連していそうな文献を漁ってみました. 
 時代が時代なので,ほとんど全てが絶版で古本探し.内容が内容なので,客観描写だろうと思われる本を探すのもけっこう骨が折れます.小説は除外しなけりゃならんし.

 さて,一冊目は高橋健夫「油断の幻影=一技術将校の見た日米開戦の内幕=」から.

高橋健夫(1985)

 筆者は副題の通り戦前戦中をかけての技術将校.軍用燃料関連の実務を一手に引き受けていたようです.したがって,だれよりも石油と戦争の関連を語れる重要人物.
 著者が記録しておきたかったことの一つは,帝国陸海軍の愚かさと因習だろう.当時の軍首脳部は軍事行動に於ける石油の重要性が理解できていなかった.また,理解できても,具体的にどうするかということを考える能力がなかった.
 また,石油がなくては軍事行動ができないので石油関係者を軍属にしたのに,軍属は軍馬,軍用犬,軍鳩以下の扱いでした.南洋油田占領後,その修理運営に行くはずだった軍属たちは,軍人なら飛行機で三日でいける現地に,船で何ヶ月もかかっています.負けるわけだ.その当時の日本の「秩序という名の差別構造」が透けて見える話です.筆者は敗戦後,進駐軍から事情聴取を受けていますが,その相手は民間石油会社の社員であり,同時にこの仕事のために将校待遇で雇用され,正式の将校と同じ扱いを受けていたことに感銘を受けたといいます.
 戦前戦中に関する石油事情はこの本一冊で充分だろうと思われます.

 二冊目は,石井正紀「石油人たちの太平洋戦争=戦争は石油に始まり石油に終わった=」.

石井正紀(1991)

 筆者は理工学部建築家出身の建築技術者らしい.しかし,戦記関連の著述が複数あり,本業の傍ら関連の著述を続けていたらしいです.大量の戦記関連の書籍を読んでおり,末尾にたくさんの文献資料のリストがあるのがありがたい.もちろん前記,高橋(1985)は重要文献ですね.
 昭和12年生まれなので,実体験に基づいたものではないですが,構成や文章は非常に読みやすいものです.
 出版社が「光人社」.月刊「丸」や数々の戦記物を出版している会社です.

 最後は,岩瀬 昇「日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか」.

岩瀬 昇(2016)

 筆者は商社マン.東京大学を卒業して三井物産に入社し,石油を中心としたエネルギー関連業務に携わってきた人物.現在から第三者の目で,日露戦争から軍用エネルギーについて概観しています.
 筆者は1948年生まれ.完全に戦後育ちです.

 三冊の著者は,世代および立場の違いがありますので,読むなら,それを頭において進めるのがいいでしょう.

 さて,湊先生を初めたくさんの地質屋,また石油技術者を南方に送り込んだ社会情勢はなんとなく理解できました.次は,現地における戦闘の実態について調べてみたいと考えています.


2020年8月30日日曜日

ブンガワン・ソロの謎(安田信行さんの手記より)


 安田さんの手記は八年くらい前,湊先生の論文の収集と整理をしていた時に偶然web上で発見したものです.「交通医学」という安田さん個人のHPでした.その時は別なことをしていたので,あとで熟読しようと思いましたが,念のためpdf.にして保存してありました.

 前項「ブンガワン・ソロの謎」を書き始めて,そういえば…と,思い出し,安田さんのHPを探しましたが見つかりません.八年の歳月は長いですね.たぶんお亡くなりになったかHP運営が面倒になったか….当時,HP作成は一種のブームになっていて,いろんな人がたくさんのHPをつくっていました.こういうような私的な記録もたくさんあったのです.

 ですが,このようなHPは書籍にしたものと違って,生きている時間が短い.本人が飽きたり亡くなったりしてプロバイダに会費を払わなくなれば,その時点で「消えて」しまいますし,個人HP作成のブームが終わった現在としては,プロバイダも儲けが少なくなりますから突然「サービスを終了します」というメッセージを残して廃業したりします.

 わたしは,それがあるから(ほかにも理由はありますが)無料のサービスを利用しています.わたしが死んでも,会費制じゃないわけですから,しばらくは維持されると踏んだからです.ところがこちらも「新しいサービスに移行します」という一方的な通告で「終了」したりします(じつは今それで困っています).まあ,Google社も商売ですから,膨れ上がるデータ量を維持するのは大変だろうということは理解できますが,当時多くのひとが作った多量のデータは…そうやって「消えて」いった模様です.


 それはともかく,幸いにもpdf.にした安田さんの手記が,我がMacのHDDに残っていたのを幸いに,手記を読んでみることにしました.


 ただし,この手記は1989年に書かれたもので,その時点で戦後40年以上経っていますから,記憶が曖昧で思いだすままに,ほとんど脈絡もなく書かれたものです.それでもわずかに湊先生の戦時中を知ることができました.


 安田さんは,昭和18年,予備士官学校を卒業し南方燃料廠に転出しました.翌年,シンガポールを経由してパレンバンに行き,南スマトラ燃料工廠に配属.そこで地質課調査隊湊隊に属することになりました.

 湊隊では隊のサポート役として,機材や備品の管理,作業員の確保などを業務としていたらしいです.このHPでは「7)地質調査隊」という章があるので,湊先生の地質調査の話が少しでも出てくるかと期待したのですが,まったくありませんでした.もちろん,安田さんは地質屋ではないのですから,地質調査そのものに興味があるわけはないのは当然です.また,調査地プラブムリーでは湊先生と一緒の宿舎にいたにもかかわらず,当時の湊先生をイメージするような思い出は一切ありませんでした.あるのは,個人的な生活の記録や現地の人々の生活の様子,珍しい動植物の記憶など,人間の記憶とはそういうものかと思わせるものでした.

 唐突ですが,わたしの伯父はスマトラの隣のボルネオ・バリクパパンで戦死しているので,このあたりの戦記をいくつか読んでいますが,それらはこの世の地獄の様相を示しているのに,収容所暮らしを経験している安田さんの手記では,なんとまあ能天気な…と思わせるほどでした.人間の記憶という不思議な機構のなせる技なのかもしれませんが….



安田さんの手記中に添付された図(Palembang (B))から


 pdf.からそのまま起こしたもの.解像度が非常に悪く見づらいが原図はもっと見づらいです.収容所にいる間に大学ノートに記録したものはインクの色があせて見づらくなっていると書いてありましたが,それををコピーして貼り付けたものだろうと思います.凡例がA~Pまで二セットありますが,下のセットは「’(ダッシュ)」つきなのかもしれません.凡例「A」に「湊サンノ宿舎」とあります.現地調査に行く前の仮の宿舎なのでしょう.中央付近の「A'」ではなく,右端中あたりの「A」がそうであると考えられます.



安田さんの手記中に添付された図(プラブムリー 湊さんと共に暮らした家)から


 プラブムリー地質調査中に使用した宿舎と思われます.


 調査隊は青山隊・熊谷隊・湊隊の三つがあったそうです.安田氏は湊隊に配備される前に,ジャンビーという所を調査していた隊に仮配置され調査隊の概要を見学していたといます.湊隊がプラブムリーに実際に調査にはいった時の支援作業をおこなうための勉強や下調べであったそうです.しかしその後,湊隊で働いているうちに病気になり陸軍病院に入院し,退院した時には別の組織に移動になったとあります.そのため,湊隊の記憶は少ないのかもしれません.

 「プラブムリーの調査隊には、隊長の湊正雄さんと私、そして軍属の剣さんと言う人と台湾出身の李黄さんと言う人がいた。その他に何人かいたような気もするが記憶は確かではない。」とあります.

 安田さんは,敗戦後帰国してから10年後に金沢大学の構内で再会したそうです.湊先生は学会で金沢大学にいたらしい.地質学会の開催地を調べれば,もっと詳しい年月日がわかるでしょう.しかし,その時になにがあったかは書いてありません.なぜ安田さんが金沢大学にいたのかも書いていない.

 また,この手記を書く数年前に,湊先生の落雪事故の新聞記事を見たそうです.


 安田さんの手記やほかいくつかのスマトラ・ボルネオの油田に関する本を読んでいて,思ったこと.ヨーロッパ人のつくった町の立派であること.そこを占領した日本人はもちろん,ヨーロッパの植民地支配者の生活を体験したことになります.当時の日本本土の日本人と比べても,なんと豊かな生活であったか.比べて,現地住民の貧しさ.

 太平洋戦争はたしかに日本の侵略戦争でした.しかし,当時の兵隊の多くは,やはり「八紘一宇」や「アジアを開放する」というスローガンを信じていたのかもしれません.まるで現在の若者が,自衛隊の本来の仕事ではない災害救助が仕事だと信じて入隊し,悲惨な目に遭っているような….

 そして,それを信じている末端の兵士と接触の多かった現地人は,大いにそれに影響を受けたのでしょう.敗戦で撤退する日本兵とは対照的に現地の若者は,本当にアジアを開放する戦いに突入していきました.一部の日本兵は日本に帰らず,その戦いに参加したといいます.その話を調べるのは,今のわたしには手に余ります.

 今しばらくは,湊先生のブンガワン・ソロの謎を追ってみたいと思います.この話題もうしばらく続きます.



2020年7月22日水曜日

まぼろしの赤山紀行(「赤山紀行」探索記Ⅱ)



 上野(1918)が最初に引用した「赤山紀行」は,

「(一七)、寛政十一年(西一七九九、119)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ(ル)」

というものでした.これには著者名の記載がなく,わかる情報は1)1799(寛政十一年)年,作者はここを通過した,2)ルートは,オタノシキ川(現:阿寒川)から釧路原野を左に見てクスリ川(現:釧路川)まで,さらに桂戀(桂恋)附近のシヨンテキ海岸(現地名:不詳)附近まで.3)オタノシキ川からクスリ川まで石炭の転石があることです.
 話は繋がっていますが,著者は大楽毛川から釧路川まで,釧路原野を左に見て歩いているわけですから,「今度シラヌカにて石炭を掘りしに…」は過ぎ去ったルートのことを思い出して書いているわけです.4)その白糠では“石炭を掘っていて坑道掘りであること”,“坑道は三百間(約500m)に伸びるが石炭層は続いている”ということです.

 前々回は,児玉(2000)に掲載された「我が国主要石炭鉱業の時代別成立」の図の注の付表…

 「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」

から「赤山紀行」は“谷元旦の著作である”と書いてあると解釈しましたが,前回の山下(2012)から谷元旦が作者である可能性は,ほとんどなくなりました.そういう目で見ると,上記付表の注:34も,「釧路紀行=赤山紀行」とも「釧路紀行≠赤山紀行」とも解釈できます.困ったものです.
 そこで,この「赤山紀行」,喉に刺さった棘のように気になって,気になって…

 ついに「蝦夷蓋開記」のテキストをゲットしました.それは板坂耀子(2002編)の「蝦夷蓋開日記」で,「近世紀行文集成 第一巻」の中にありました.


 結論から言うと,文体は似ているものの書いてある内容はまったく違い,“赤山紀行”は「蝦夷蓋開日記」でも,そこから派生したもの(写本など)でもないようです.文体は当時流行っていた美文調でも,怪しげな漢文でもない,まったくムダがない.また筆者は当時の科学的知識(本草など)の造詣が深いことを物語るような内容です.化石などを採集したことも記録されています.
 さて,クスリ附近の海岸の石炭の様子…

「ヲンネツフヨマイの出崎より石門を通り、懸崖絶壁の根より波の打入る洞六ケ所あり。夫より赤壁の間を行。此辺、壁の内壁珀を含む。石炭など多し。名づけて「石炭崖」となす。夫より出崎、浪高く、山路を越て浜へ出。流れあり。ヲソウナイといふ。又、出崎、越がたく山路を廻り浜へ出。石門あり。ヲコツヲ、沢川を経てロクネホツルに至る。」

ということで,まったく「赤山紀行」の文章とは異なります.したがって,赤山紀行は元旦の書いたものではないということになりましょう.

 不思議なのは,シラヌカを通過しているのにもかかわらず,この行程の行きも帰りも「石炭窟」についてひと言もないこと.白糠に石炭窟があったとしたら,元旦がまったく触れないというのは,異様としかいいようがありません.本当に三百間もあったという白糠の石炭窟は,この時に存在したのでしょうか.

 なお,この板坂(2002編)には「解題」がついていて,「蝦夷蓋開日記」の概要が示されています.板坂(2002編)時点での「国書総目録」に示されている元旦の著作とされているものは「蝦夷紀行図譜」「蝦夷山川地理紀行」「蝦夷釈明」「蝦夷蓋開日記」「蝦夷風俗図式」の5点のみ.これらの書の内容や相互の関係は不明な点があるものの,いずれも寛政十一年の蝦夷地探検が題材である…寛政十一年といえば…

 江戸幕府が東蝦夷地を直轄とした時代で,北海道史には重要な時代なハズだけど,ここら辺りをまとめた研究はめったに見ない.和人の探検家が大挙してやってきた時代なのに.この時代の登場人物の個々についての伝記などならあるんだけどねえ….いずれ調べてまとめるとして.話を続けることにしましょう.


 

2020年6月27日土曜日

ブンガワン・ソロの謎



 我が師・湊正雄先生は,教室の新歓コンパに参加する時は,いつも途中から「ブンガワン・ソロ」を原語で唄うのが常でした.学生の中には「ニャー,ニャー」としか聞こえないという不届き者もいましたが….

 先生がなぜ「ブンガワン・ソロ」を唄うのか.
 聞くところによると,南方石油の開発に徴用され,帰国時は悲劇的な阿波丸にではなく,危険といわれた軍艦で急ぎ帰国したため,逆に死を免れたそうです.帰国してからはすぐに,当時北海道帝国大学の(いや,日本の)財産とも言うべきデスモスチルスやニッポノサウルスの標本を理学部ローンに埋めたといいます.もちろん,近々起きるであろう米軍の大空襲に備えてのことです.いったいなにがあったのか.湊先生はこの間の記録を一切残していませんので,直接知ることはできません.
 それで,この謎の外堀を埋めるつもりで,この件に関係していそうな資料を集めてはいますが,外堀すら埋まるのはまだまだ遠い話です.

 そこで,気になった一冊.

岩瀬昇(2016)日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか.

 表題では,満洲大油田の話かと思われてしまいますが,そうではありません.また,帯に「昭和15年春,満洲南部 もし,日本が石油を掘り当てていたらーーー」とありますが,そんな小さな話でもありません.これぞ本当の歴史書かと思わせる内容です.

 というのは,われわれが習ってきた歴史というのは,当時の王(政権)や誰と誰が戦って誰が勝ったという,というような中身のない記録ばかりですが,こういう歴史には子どものころから興味が持てなかった.それがなぜか判ったのは最近の話で,それはあまりにも薄っぺらすぎるからです.
 たとえば,「いくさ(戦争)」にしても,A将軍のA軍何万とB将軍のB軍何万が戦ってAが勝った.それでナニナニ政権ができた…は,おかしな記録です.両軍の武器は刀にしろ槍にしろ,これは「金属」です.金属がなければ武器はできない.金属はどうしたのか?.武器がなければ「いくさ」はできないのに,まったく無視されている.「A軍何万」といっても,彼らをどうやって運んだのか.「食い物」はどうしたのか.これも無視.近代戦ならば,軍艦にしろ戦車にしろ,戦闘機にしろ,動かすのは「石油」.これも無視.そういう歴史の疑問に回答をくれるのがこの本.こういう歴史書がどんどん出てくることを望みますね.

 さて,まず驚くのが,戦前の軍人は「水がガソリンになる」という詐欺に簡単に騙されるレベルだったこと.これは無名の軍人ではなく,歴史書であれ戦史であれ,必ず出てくる重要人物(!)がです.軍人を政治に関与させてはいけないという歴史の教訓.
 そして,やがて石油の重要さが認識され始めると,戦争遂行のための石油を確保するために戦争に突入してゆくという,冷静に考えればまったくばかげた状態が「太平洋戦争の実態」.そのために日本人全員が巻き込まれ,ほぼアジア全域の人々を巻き込んだわけです.

 当時,日本国が通常使うような量の石油は北樺太に充分にありました.当時,そこは日本領であったから,技術が伴えば,ほかの土地(他国)にいく必要はありませんでした.もちろん,ロシアが邪魔したことで開発できなかったこともありますが.この北樺太(現在はロシア領サハリンとされている)から,現在日本は大量の原油と天然ガスを輸入しているはずです.
 傀儡国家とはいえ満洲国が成立した時に「満洲大油田」を発見できていれば,南方に向かう必要はなかったのでした.しかし,ここでも未熟な石油開発技術と軍部の無理解にあい開発はできませんでした.もちろん,未熟な石油開発技術自体も日本という国が学問に無理解だったせいですが….
 そして,南方石油開発という名目でたくさんの民間技術者を送り込み,撤退時に起きたのが「阿波丸の悲劇」でした.戦時に,はるか南方から石油を運ぼうという信じられない愚挙,みずからの首を絞めるような行為で,瞬く間に国力を使い果たし….というわけです.海外から石油を運ぶなどということは「平和でなければできない」ことです.日本は「平和憲法を守」らなければ,将来はないわけです.歴史に学ばない人はそれが判らない….

 そして湊先生も,その愚挙に巻き込まれたひとりであったわけです.

 しかし,この本でも湊先生の「ブンガワン・ソロの謎」についてのヒントはありませんでした.とはいえ,大量の参考文献が示されており,ほとんどはわたしの立場では見ることはできませんが,中にはいくつか入手可能なものもあるようです.
 探索は,まだまだ続きます.