2008年6月5日木曜日

「蝦夷地質学」のイメージ


 PC中のファイルを整理していたら,以前考えていた「蝦夷地質学のイメージ図」が出てきました.地団研HPで連載中に使えばいかったんですけどね.

 林子平・近藤重蔵・最上徳内・間宮林蔵らの蝦夷地探検の上に,松浦武四郎の探検があるわけですが,一方で,五稜郭や弁天台場を建設した「武田斐三郎」をキーマンとして,地質屋の動きがある.

 明治になって出てきた地質屋である榎本武揚は,彼らの存在を基盤としてあるわけです.

 蝦夷地開拓の方針を巡って,技術者としての榎本とライマンの確執があり,榎本の背後には黒田清隆がおり,ライマンの背後にはケプロン将軍がいる.彼らは,協力したり反発したりして,北海道の開拓を進めて行くわけです.そちらの方は正史ですでにたくさんの人が論じていますから,放っておくとして,地質屋としての見方でいきましょう.

 結局,箱館戦争で黒田清隆に負けた榎本は,今度は開発技術者としての戦いでライマンに負けてしまい,技術者としての道を放棄してしまうわけです.最も,このあと榎本は,政治家として大成功するのだから,「塞翁が馬」です.

 この図には書かれていませんが,このあと,蝦夷地質学の中心はライマンの弟子たちにうつってゆくはずですが,これはまだ資料不足でよくわからない.で,しばらく放っておきます.

 話を少し戻して,
 ライマンは北海道地質調査の際に,江戸時代の蝦夷地探検家である松浦武四郎の作成した地図を使って,石狩川を遡り,旭川をとおり,層雲峡を渡り,開拓峠を越えて,十勝平野へと出ます.その時,武四郎の地図の不正確さに不平を述べるわけですが,事の起こりが,どうやら,上川アイヌの乙名・クーチンコロの動向にあったらしいという推理を「蝦夷地質学」でやりました.

 詳しく知りたい人は,左のリンク欄から,「蝦夷地質学」へ.

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