2012年8月30日木曜日

アイヌ伝説と蓬莱山

三石の焼串岩

日高線三石駅のところを流れる三石川の二㌔ほど上流に,イマニッという十㍍ほどの岩がたっているが,イマニッとは焼串のことをいうので,昔この附近の人々が魚を焼いて食うことを知らなかったので,この浜に鯨が寄ったのをオキクルミが切って,それを蓬の串に刺して焼き,人々に魚を焼いて食うことを知らせ,それをいつまでも忘れないようにするため,その串を岩にしてここへ残したのであるという.
そしてその岩は段々と大きくなっていったが,ある時この岩の下を不浄な女が通ったので,岩の中ほどから折れて,先の方は川の向うに飛んで行ってしまったという.なおこの岩の上には三石山にある草木が全部あるとも言われ,昔からアイヌ達が神を祭るときには,この岩にも木幣をあげることになっている.
(松浦武四郎「東蝦夷日誌」三.永田方正「蝦夷語地名解」.中田千畝「アイヌ神話」)

国造神が鯨をとって焼串をつくり,それに鯨をさして三石川の傍で焚火をして焼きながら居眠りをしていると,串の根元がこげて折れ,ドタリと川向に倒れたので,国造神がびっくりして尻餅をついた.そのあとを尻餅沢といって川向いにあり,折れた焼串が岩になったのが今の蓬莱岩である.
(三石町幌毛・幌村トンパク老伝)

昔はあの岩の下に祭壇をつくって春と秋とに祭をしたものだ.岩の上には沼があってヤマベやウグイなどがいたし,ここには北海道中の植物があるということだ.
(三石町・幌村運蔵老伝)

昔,三人兄弟の悪い神が焼串岩の上にいて,時々部落を荒しに来るので,よい神様が怒って岩を取囲んで攻めたので,たたらなくなった三人は岩の上から跳ねおりたが,兄の二人は岩にぶつかって死んでしまったが,一番の弟がうまく川の水の中に飛びおりて助かり,川上に逃げたので追って行くと,途中で魚を焼いて食った跡があるので調べてみると,その中が毒のある木でつくられていたので,
「こんなもので魚を焼いて食っているような奴は,追っかけるのもけがらわしい」
といって戻って来たが,この焼串も岩になったということだ.
(三一石町幌毛・幌村トンパク老伝)

三石の焼串岩は,文化神オキクルミが鯨を刺して焼いて食ったときの串だ,串はヨモギだった.
(門別町受乞・葛野藤一老伝)

鯨をやいて食っていたのは国造神で,この神は海に入っても膝小僧の濡れないほど大きかったが,支笏湖と石狩の海は深くてキンタマ濡らしたそうだ,川とか沢はこの神様の指先の跡だ.三石の串が折れてびっくりして尻餅ついた跡が静内のトープッ(沼口)だということだ.
(門別町富川・鍋沢モトアンレク翁伝)


伝説で「焼串岩」と呼ばれているものは,現在は「三石蓬莱山」と呼ばれている小山(?岩)のことです.

この山は「北海道地質百選」にも選ばれています.

この三石蓬莱山を中心に北西-南東方向に伸びる山稜があり,ピークは「社万部山」・「軍艦山」などの山名がつけられています.この山稜は,構造地質学的には「蓬莱山地塁帯」(和田信彦ほか,1992)と呼ばれ,岩石学的には「神居古潭帯・三石岩体」(和田信彦ほか,1992)とも呼ばれています.古くは「蓬莱山変質岩体」(石橋正夫,1939)と呼ばれていました.

このあたりでは変わった岩石が採集できるので,私も幾度となく遊びに行ったものです.最初にいったのは,大学三年目の夏.当時は道東巡検というものが教室行事としておこなわれていて,この付近の地質の説明を担当したのが,私でした.
当時,卒論生だったKさんに,石橋さんの論文の存在を教えていただきました.

最後にいったときには,以前は歩けた林道がまるでわからなくなっており,車道の道ばたに落ちていた陽起石(アクチノ閃石)の塊をひろってむなしく引き上げた思い出があります.


なお,「北海道地質百選」の「三石蓬莱山の角閃岩」を担当した川村さんは「この部分が自然地形なのか開鑿されたものかは不明」としていますが,永田方正の「蝦夷語地名解」は1891(明治24)年に出版されたものであり,その時に「岩」と表現されていますから,あとから周囲の道を広げた可能性はあるものの,岩自体の形は自然に近いものと思われます.

アイヌたちが,岩石学的な重要性に気付いていたとは思われませんが,奇妙な石が落ちていることや蓬莱山そのものの形に興味を引かれた結果できあがった伝説なのだろうという気がします.
 

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