利別川の鯨
十勝川第一の支流利別川に,フンベポネオマナイ(鯨の骨のある川)という川があるが,この川は或る年の大津波でこの附近の人が皆死んでしまったとき,鯨も津波におされて来て骨だけが残ったところであるという.
(音更町・細田カタレ姥伝)
現在,「フンベポネオマナイ」という川の名(もしくは地名)は残っていません.
アイヌ伝説と津波の関係を調べている高清水(2005)によれば,利別川-十勝川合流部でさえ「海抜約10mあり,太平洋から直線距離で約20kmある」ので「アイヌの時代に津波に襲われたということはないだろう」としています.
この判断を評価する能力は私にはありませんが,「鯨の骨のある川」という記述は見逃すことができません.
利別川の支流に本別川があり,合流地点から約2km東に「義経山」と呼ばれる山があります.そこにも「伝説」があります.
義経山の伝説
十勝池田から北見市に通じる,池北線の本別駅附近に,俗に義経山と呼ばれている山がある.古い名はサマイクルカムイサンテというのであって,天地創造神の乾し棚という意味であるが,昔この附近がまだ海であった時代に,サマイクルカムイが,ここで鯨をとって料理したところであるといい,山の上には今もその時の鯨が岩になったままのこっているという.
(永田栄氏輯)
そして,「義経山」の隣にも….
本別のオチルシカムイ
義経山の隣に,山の峰が本別市街の方へせり出したところがあり,ここはお祭りがあるたびにオチルシオンカムイ(峯の神)といって,酒をあげて祈願するところであるが,昔このあたりが見渡す限りの蒼海原であったとき,山の神さまが鯨をとって食べて,その頭を投げたのがこの山になったのであるという.
(池田町高島・山越三次郎老伝)
この付近には,十勝層群下部の本別層や足寄層が分布し,その北部延長は,もちろん,クジラ化石で有名な足寄町へと続いているからです.
蛇足しておけば,足寄動物化石博物館が中心になって研究が進んでいるデスモスチルス類が産出するのは,この十勝層群の下位に連なる古第三系の川上層群で,その延長はやはり義経山の東麓に続いています.
つまり,津波はたしかに大きな事件なので,これに結びついてしまったのは致し方ないことですが,義経山付近にもクジラやデスモスチルスの化石骨が産出していた可能性が非常に高いことが判ります.
もう一つ,「義経山の伝説」や「本別のオチルシカムイ」の話で気になることがあります.
それは,双方共に,「昔,この付近が滄海であった」としていること.
津波をベースに考えれば「こんなところまで津波が来るわけはない」となってしまいますが,本当にこの付近が海だったことはなかったのでしょうか.
たとえば,いわゆる「縄文海進」と呼ばれているものがあります.
縄文海進時にこのあたりが海であれば,縄文人の末裔であるアイヌ民族に,民族としての伝承があっても不思議ではありません.
しかし,この証明はなかなか難しいようです.
そもそも「縄文海進」自体の実態がはっきりしていませんし,十勝平野に縄文海進の影響があったという報告は見あたらないからです.
「縄文海進」の実態がはっきりしないということは,話し出すと長くなりますので,やりませんが,まあ,「地球温暖化騒動」にかなり関係があるとだけいっておきます.
科学的な議論ではなく政治的な議論が紛れ込んでいるので,常に眉に唾をつけながら調査しなければならないわけです.
面白いのは海進の程度ですが,非道いのになると0~2mとしているものがあります.そもそも0mでは海進ではない((^^;).0~2mなんていう程度の小規模海進が「判断できる解像度があるのか」ということも心配になります.
なお,第四紀学会の公式見解では2~3mということになっています.
いいたかありませんが,ネオテクトニクスを考えれば地域差があって当然なのに,日本平均で2~3mなんてことを「見解」としていいのでしょうかね….
さて,千歳市にある美々貝塚は縄文海進時の生活の場とされています.それは(現在の)標高20m程度の台地の上にありますが,その直下の河床は標高5m程度なのでしょうか.2~3m程度の海進でシジミを中心とする半塩水-半真水の環境が,ここにできるかどうか.
まさか「そんな検討はしていない」ということはないでしょうから,この地形,この海進の程度で「できた」と判断されているのでしょう(ちなみに,ある北海道の研究者は3~4mとしています:もちろん,海進の程度がどこでも一緒である必要はありません).
そうすると,縄文海進時に,十勝平野が一部でも海域になったという証拠はなさそうです.十勝平野に貝塚があるという話もあまり聞きませんモンね.
もっとも「海進時」に住めるところは,ある程度の高さのある台地の上ということになりますから,広大な十勝平野では貝塚をつくる条件がそろっていなかっただけなのかもしれません.
さて次の可能性は「下末吉海進」と呼ばれるものです.
関東平野で確認された12~13万年前ころの出来事です.下末吉海進は10mぐらいまで海進が進んだとされています.もちろんこれも,地域によってかなり程度が違うようですけど.10mならば利別川-十勝川合流部は「海」だったことになります.
下末吉海進に相当する海進が,十勝地域で確認されているかどうかは定かではありません.
もっとも,下末吉海進は12~13万年前ころの出来事ですから,約二万年前がもっとも古いといわれる北海道の人類遺跡記録からは,この頃の旧日本列島人がこの海を見たとは考えられません.
そうすると,本別地域に伝わる「海の伝説」の原因は,やはり「山で発見される“クジラのような巨大な骨”に求めるべき」ということになりますかね.
似たような伝説が釧路市音別町にあります.
音別の炭川
釧路音別町の尺別川の隣りに、パシウシュベという小川がある.昔この附近の海上で,鯨と海馬とが争いを起し,鯨の方が負けそうになったので,この小川へ逃げ込んでしゃにむに川上へ向って泳ぎ上り,どうやら海馬からの難をのがれることが出来たが,さて海に戻ろうとしたが,あまり勢いよく突込んだ為,体を廻すことも後戻りすることもできなくなって,そのまま川をうずめてしまった為に,川は炭のように真黒くなってしまったという.ハシとは木炭のことでウシュは沢山あるところ,ベはものという意で,炭の沢山ある川ということである.
(中田千畝「アイヌ神話」)
現在「パシウシュベ」という地名はありません.
そのため,具体的にどこでの伝説なのか検討することができません.
後半の記述は,釧路炭田の一部を意味しているものと思われます.
つまり,このパシウシュベ川の奥には石炭の露頭があることは間違いがなさそうです.
残念なことに,手元に釧路炭田の地質図がないので,これも検討不可能.
こういう伝説を聞くと,あることを思いだします.
ある小さな炭鉱の経営者が博物館にやってきて「骨みたいなものがたくさん出ているので見て欲しい」というのです.その時に持ってきたものは「ただの妙な石」でしたが「ほかにもたくさんある」といってました.「また持って来る」といってましたが,それっきり現れませんでした.
こんなことは,たぶん「ある」ことなのでしょう.なぜなら,その附近では,昔,アミノドンの化石が発見されているからです.
ただ,個人経営だといろいろ都合があって,荒らされたくないのだともいってました.まだ,埋もれたままの(発見はされているが,持ち主の都合により公表できない)化石があるに違いないと思います.
そんな背景を考えれば,そこらあたりには,やはり,骨の化石が埋まっているのではないかという気がします.
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