2010年8月8日日曜日

反プレートテクトニクス論

 
 「反プレートテクトニクス論」という本の新刊案内がとどきました.
 著者は,星野通平さん.

 「う~~ん,ガンバルなあ」という気持ちと,「もう,いいんじゃあない」という気持ちが半々.星野通平さんには,わたしがまだ学生のとき,湊正雄教授の部屋でお目にかかったことがあります.もちろん,わたしのことなど覚えていないでしょうけど.
 当時もじいさんだったから,いまは相当な歳かとおもいますが,元気いっぱいのようですね.

 「まえがき」が紹介されています.

「私が本書で主張したかったことは、プレート説一辺倒の地球科学の世界に、若い人たちがおのおのの仮説をもって、もっと自由闊達に討論をまきおこしてもらいたいことである。そして、科学の世界だけでなく、政治・経済・教育など、あらゆる分野にはびこっている、閉塞感あふれた世の中の風潮を、少しでも打ち破ってもらいたい、というねがいを、本書にこめたつもりである。」

 これは無理だと思います.

 皆が口をそろえて「おなじこと」をいうことを「パラダイム」といいます.ちがうことをいうのは,先行する「パラダイム」に矛盾が蓄積し,その「パラダイム」ではどうしようもなくなってきたときに,やっと始まるとなっています.
 数十年前に「地向斜造山論」から「プレートテクトニクス」というパラダイム変換が起きました.これは,「地質学」から「地球科学」へというパラダイム変換でもあったらしい.
 前者はともかく,後者のパラダイム変換は,近代地質学が成立したといわれているのが1800年代の初めですから,170年はかかっているわけです.ここしばらく,これに匹敵するパラダイム変換は起きそうにない.

 しかも,現代の科学者が求めているのは,「地球の真実」などではなく,学会における自分の立場.しばらくの間,「プレートテクトニクス」と「地球科学」というパラダイムに安住できるわけです.「ちきゆう」なんていう船は,このための強力な盾(武器ではないです)(「ちきゆう」は,どうして,仕分けの対象にならなかったのだろう?)(地質学は政治的に不要だけど,地球科学はまだまだ,政治的に「つかえる」のかな?).


 わたしは,「パラダイム論」にも「パラダイム論」が適用されるだろうと思っています.しかし,それが当分のあいだ,くずれないであろうことは,「プレートテクトニクス論」の本は市販ルートにのりますが,「反プレートテクトニクス論」の本は,市販ルートにのらないことからもわかります(もちろん,地質学雑誌にものらない).

 勝ち馬にのること自体は,決して恥ではないとはおもいますが,大多数が「勝ち馬にのっている」以上,自由闊達な議論など,起きるはずがない(そもそも,パラダイムがちがうのだから,議論自体が成立しない).
 ちなみに,わたしは,地向斜造山論者でもPT論者でもないので,どうでもいいのですが,科学史・科学論の興味深いテーマが,ここに転がっていますので,先ほど,ファックスで,この本を注文をしました.

 

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめまして。地学初心者ですが、プレートテクトニクス理論には疑問がいっぱいです。簡単に信じても良いものなのかなあ。自由闊達な意見交換はいいと思うのですが。

ボレアロプーさん さんのコメント...

科学が面白いのは,知れば知るほど,疑問が増えてゆくことです.
知れば知るほど,自分はなにも知らないことがはっきりしてきます.
人類は無知であることもね.

パラダイムに取り込まれた科学者は,自分が完璧であることを盲信しています.
パラダイム論は,科学が宗教に酷似してることも教えてくれます.

夏羽 さんのコメント...

初めまして。今ハプグッド教授の’The pass of the Pole'を読み終わったところです。ここではプレートテクトニクス理論、いわゆる大陸漂流説(continental drift)及び氷河期という概念が矛盾していることを様々な例をあげて説明しています。アインシュタインをはじめ、大陸漂流説に反対していた科学者、地質学者は少なくなかったようです。星野先生、石田先生といった、年をめされても、時代の波にのまれず、真実を追究していく若い精神をもたれた方がいらっしゃるのは嬉しい限りです。もちろん、かく言う私もプレート説はまったく論理的ではないと思っております。
長くなって申し訳がありませんが、何故大陸漂流説という考え方が生まれたのかについて、ハプグッド教授が説明しておりますように、様々な理由のつけがたい地殻異変があったかと思われます。大陸漂流説は原因を究明するうえで生まれた、ひとつの仮説とみることができるでしょう。この説が正しい、正しくないにかかわらず、こういう考えがもたらされた背景があったという事実からまた一歩真実の探求がなされればいいのではないかと思います。科学にしろ、地質学にしろ、これが絶対と信じるのは危険だし、そこで進歩がとまってしまうのではないかということです。それよりも、論理がつくりだされた理由、状況を研究した上で、常識にとらわれない、世界の流れに乗せられない、自分自身の判断をくさすことは科学の進歩にとって何より重要なことではないかと思います。

ボレアロプーさん さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
ボレアロプーさん さんのコメント...

お目にとまりまして,光栄です.
ご意見,まったくその通りだとおもいます.
それが「科学」ではないかと思うものですが,現実の科学者(とくに日本の)にとっては,科学者であることは「ただのシノギ」にすぎないのではないかと疑ってしまいます.