2014年3月9日日曜日

「日本の地質学は九州からはじまった」?

 
地団研の機関誌「そくほう」697号に,こんな記事が載りました.


まあ,佐賀大会を盛り上げようという気持ちはわからんでもないですが,記述が不正確すぎますね.
真面目に地質学史をやってる人が見たら,かなり不愉快に思うことでしょう.

第一に「リヒトホーフェン」が日本にやってきたのは,確かに記述の通り「1860年」ですが,正確には1860年9月4日(万延元年七月十九日).江戸・横浜で冬を越して「条約の仮調印」後,1861年1月31日(万延元年十二月二十一日)に長崎に向かったはずです.
九州がみえたと記録しているのが2月10日.しかし,船から陸上の地形は見ましたが,上陸して調査なんてことはできなかった.
長崎入港が2月17日(万延二年一月八日).
「1860年」だけ示して,調査地(?)長崎に到着したのが,いかにも早かったように見せかけるのはどうかと.

そのあと「長崎で接した地質岩石の観察により…」と,いかにもその周辺の地質調査を行ったかのように表現されていますが,当時の日本では外国人の旅行はきびしく制限されており,自由な地質調査なんか,幕府の許可が無いとできるわけもなかったはずです.
で,許可された範囲内の地域(風頭山,金比羅山など)にはでかけたようですが,詳細は不明.
結局,当時長崎に居たポンペの紹介で司馬凌海が収集していた岩石を見せてもらい「長崎周辺の地質構造に関する所見」と「九州の地質学」の二論文を作り上げたらしいです(ある意味凄い!).

例によって,この二論文は入手不可能.もっとも原著はドイツ語ですから,入手できても解読が大変.(^^;
で,リヒトホーフェン一行が長崎を発って上海に向かったのが,1861年2月24日(万延二年一月十五日).
長崎にいた期間は,一週間でした(もちろん,入港した日と出港した日はなにかできたとも思えません).

これで,「日本の地質学は九州からはじまった」とPRされてもねえ.

勘違いされても困るので追記しときますが,リヒトホーフェンに業績が無いとかいっているわけではありません.彼の業績は発掘され,評価されるべきでしょう.正当にね.
++++文献+++
上村直己(1997)リヒトホーフェンの見た幕末・明初の九州.
熊本大学文学会,地域科学編,「文学部論叢」,第56号,地域科学編,53-96頁.
 

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