2021年1月26日火曜日

ブンガワンソロの謎(湊先生の場合:そのい)


 三年前の2017年,北大博物館で「北大古生物学の巨人たち」という特別展があったらしい.ひょんなことからその図録を入手した.巨人たちとは,長尾 巧,大石三郎,早坂一郎,湊 正雄,加藤 誠の五人である.おのおのに,一頁半ばかりの短い人物紹介がある.

 湊先生については,田中嘉寛氏(当時,沼田町化石館学芸員)が執筆.執筆者はほぼ確実に,湊先生とは面識がないだろうけど(したがって,先生の「ブンガワンソロ」も聞いたことがないだろうと思う),先生の南方調査行についても短い解説がある.

 なお,情報元は湊先生追悼文集世話人会(1987編)「湊先生を憶う」のようだ.困ったことに,この本が蔵書の山に埋もれて出てこない.あるはずなんだが….





 紹介文のため,系統的な記述ではないので,それらの部分を引用して検討したい.

「1943年、インドネシアでの石油調査を任され、渡航前に28歳で助教授に昇進。戦中は中国大陸、東南アジアの地質調査を行った。」


 教室日誌を調べて見ると…1943(昭和18)年12月17日に湊先生への「南方壮行会」が開かれている.したがって,湊先生の南方行は,この直前には提示されていたものであろう.同12月23日付で第二講座助教授を発令.この時に,同時に大石三郎氏にも第二講座教授が発令されている.一年先輩であり,湊先生の盟友ともいわれる舟橋三男氏が第三講座助教授になったのが二年後の昭和20年であるから,南方行が助教授への道を切り開いたのであろうか.

 翌1944(昭和19)年2月7日から半澤正四郎教授(東北帝大)の特別講義「南方油田と有孔虫」が始まっているが,この後の湊先生の南方行に関係して…なのだろうか.

 同2月13日,「南方行待機中の湊に電報あり.取り急ぎ上京」とあり,以後の湊先生の行動は当然記録されていない.そして,翌1945(昭和20)年2月24日,「湊,南方より東京帰着の報あり」とあり,3月3日に「湊,一年振りに登校」となっている.

 なお,湊先生が南方行中に,1944(昭和19)年5月1日,「石川,有珠火山調査より帰学.有珠の地変,未終息」とある.そして,7月2日,「有珠山大爆発.石川・舟橋・百武,調査へ」となっていることを蛇足する.


 上記,田中(2017)の記述をより正確なものとするには,「中国大陸の地質調査」がおこなわれたのであれば教室日誌に記録されているはずなので,これは間違いであろう.また,上記ではインドネシアのほかに東南アジアの地質調査も行ったように読めるので,修正すべきであろう.


「戦中、もっとも重要だと考えられたデスモスチルス気屯標本は、空襲から守るため湊らによって理学部の庭に埋められ、被害に遭うことなく現在にいたるまで北大総合博物館で保存され続けている。」


 上記,教室日記の記録からは,これは湊先生が帰札した1945(昭和20)年3月3日から敗戦(1945(昭和20)年8月15日)までの間,より可能性が高いのは空襲警報が激しくなったとされる6月26日,もしくはB-29が初めて本道に侵入したとされる7月16日から敗戦までの間であろうか.

 気になるのは,ニッポノサウルスの標本もあったはずなのだが,放置されていたのだろうか,一緒に埋められたのであろうか….


「また別のフィールドでは同行者に「露頭の前に立ったら腰を下ろして一服し、全体を見渡してからゆっくり探すとよい」というアドバイスを与えている。」


 このアドバイスは,わたしが学生の時,湊先生から直接にではなく,先生から指導を受けたであろう渡辺順さん(当時第三講座の助手)から聞いた.同行者とは渡辺順さんだったのだろうか.実際,フィールドではわたしはこの教えを守っていた.おかげでタバコの本数が増えたけど…(今はタバコは吸っておりません),難しい露頭の前でも,焦ることはなかった.


「石油開発を命ぜられインドネシアに向かった際、湊は石炭の研究をしていたが、石油については自ら勉強して取り組み、石油が採れるめどをつけたという。帰国にあたっては、技術者は攻撃されにくい病院船で帰るのが普通だが、湊は早く帰りたいために、駆逐艦に乗り帰国した。後に、乗るはずだった病院船が撃沈されたことがわかった。「強運があった」と加藤は語る。」


 湊先生は,南部北上山地の「石炭系」の研究は有名であるが,石炭そのものの研究をしていたという話しは聞いたことがない.なにかの間違いであろう.

 大先輩である地鉱教室第一期生の大立目謙一郎氏は,北大卒業後,北海道炭砿汽船に勤務し,石狩炭田の地質について研究していた.そして,北大に戻った大立目氏が病に倒れた時に,湊先生がその研究をまとめたという経緯もあるので,湊先生が石狩炭田の地質に詳しかったであろうことは疑う余地もない.この大立目氏が発見した「サヌシュベ根無し地塊」は,のちに「日高造山運動論」の展開にも繋がっていくものだった.

 インドネシア(パレンバン)に於ける石油開発については,もっと調べる必要があり,あとで探索することにする.

 「技術者は攻撃されにくい病院船で帰るのが普通」とあるが,当時はそのような事情ではなかった.応召された地質屋(=軍属)は軍の命令に従うだけで,早々に帰国する目処などなく,敗戦後も捕虜として現地で苦労した方がたくさん居るくらいである.軍属は軍馬・軍犬・軍鳩より下とされ,日本帝国は彼らを戦地に放棄した.この病院船は日本に捕虜となった連合軍兵士が虐待を受けていることに,連合軍側が医薬品や食料を届けるという名目でなら「攻撃しない」と約束し,たまたまその頃航海が出来た特殊な例だった.そして不幸な事件が起きるが,それはまたあとで探索しようと思う.

 湊先生は「駆逐艦に乗り帰国した」.この事情もあとで探索することとしよう.

(つづく)


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