2021年1月26日火曜日

ブンガワンソロの謎(湊先生の場合:そのろ)


 「パレンバンの石油部隊」という本がパレンバンの石油部隊刊行会から出版されている.1973年版は前編とは記されていないが,1982年版には「後編」と記されているため1973年版は前編もしくは本編に当たる.

 ひそかに,湊先生が投稿しているのではないかと期待していたが,どちらにもなかった.しかし,湊先生の名前が出てくる投稿がいくつか見いだされた.いずれも正式な記録ではなく,戦後数十年経ってから生き残った人々の記憶をたどって記されたものであるから,間違いが忍び込んでいる可能性はある.今わたしが書いているのも正式な記録ではないので,明らかな間違い以外は気にしないこととしよう.



 牧山鶴彦氏は,当時地質課長と呼ばれ日本石油から出向していたらしい.以下に示す「地質調査隊」を統括する立場であったらしい.明瞭な部隊構造図や名簿が見当たらないので,「…らしい」で失礼する.

 牧山氏は「地質調査隊の業績」なる長文を残している.



「南スマトラ燃料工廠地質調査隊派遣位置図」


 地質調査隊は,地質課自体で遂行したものが五班,文部省から特派された学者たちを主班として委託したものが三班,計八班であった.


  南スマトラ燃料工廠地質調査隊

   ■地質課

     ┣宇佐美隊(構造試錐)

     ┣林隊  (重力竝に地震探鉱)

     ┣虎岩隊 (構造試錐精査)

     ┣金子隊 (地震探鉱:屈折法)

     ┗岡本隊 (構造試錐)


   ■文部省派遣

     ┣青山隊 (地震探鉱)

     ┣湊隊  (構造試錐)

     ┗熊谷隊 (重力偏差探鉱)


 湊先生が「構造試錐」調査隊の隊長を務めていた.油田調査だけでも違和感があったのに,構造試錐とは…!

 湊隊の,より詳しい調査内容が示されているので引用しよう.


 湊調査隊 構造試錐

一、編成 隊長 北海道帝国大学助教授   湊 正雄

     隊員 陸軍少尉(庶務)     安田信行

     陸軍徴員(利根ボーリング)試錐 柴山周吉

     〃     〃         小川 豊

     〃一鉱より派遣(庶務)     矢田了爾

     〃    〃 (〃 )     乗本林太

     〃    〃 (連絡係)    李黄添信

     〃    〃 (〃  )    剱󠄁剱 清作

     陸軍主計軍曹(経理)      小桧山肇

     医官(一鉱より派遣)      井上直孝

    現地人傭役者

     測量手 チョクワディカリオ、クマイディアバナン

     試錐係 モハメット、ジャディ、ナスング、スワルサー、サレー

     製図手 カステム、シレガル、ライラニー、バッハリー

     事務手 タンプボロン

     地質助手 ムクチー、シトンプール、アブリヒル

    現地人労務者約二五〇名


 なお本調査には以上の他に杉本良平、成田正(ボーリング)岡本慶文少尉 橋田秋彦(庶務)熊谷吉郎(測量)の応援を得た。


二、調査地 西プラブムリー地区パレンバンの両方約一〇〇粁の地点、面積(東西三粁 南北六粁)

三、調査期間 昭和十九年六月十日~十二月十日

四、調査概要 本構造試錐ではクレリュウス式試錐機六台による試錐坑五〇坑、スパイラル試錐機二台による試錐孔七八七孔、計八三七孔の試錐を行ない、コアの総延長は七、九八〇米に及んでいる。

 この作業を総括して調査地内に二つのカルミネーションの存在を確認している。戦後この地区でインドネシアによる試掘が成功し深度一六〇〇米内外テリサ層群のOT層中から出油稼行されている由である。本調査報告の詳細は昭和三十五年六月石油資源開発KK探鉱部によって複製されている


 隊員庶務の安田信行さんは,この「ブンガワンソロの謎」の最初に引用した「随筆 いんどねしあ」の著者である.ところどころよくわからない「名詞」が出てくるが,この本全体が一時期同じ釜の飯を食べた人たちが記録しているものであるから,内輪ではよくわかった「名詞」なのだと思う.

 湊隊が調査をおこなったのは,1944(昭和19年)6月10日から12月10日まで.湊先生の「教室日記」内の空白の一部が埋まった.

 「カルミネーション」は,たぶん業界用語だと思われるが,地質構造上の高まりのことであろう.もちろんそこには周囲からの石油の集積があるので,石油探査では重要なポイントとなる.

 「テリサ層群」とはテリサ頁岩層とも呼ばれる,南スマトラに分布する第三系のことで,当地の油母岩となっているようだ.


 何はともあれ,湊隊はボーリングコアのデータを読み解き,当地の地質構造を判断して有望な地域を見いだしたらしい.しかし,戦時中に採掘した様子はなく,また多くの記録によれば既存の油田から採掘したオイルも日本に運ぶことが出来ずに山中にてむなしく燃やしたとあるので,調査結果は活かされなかったらしい.しかし,戦後の平和時にインドネシアによる試掘が成功し新しい油田が開発されたそうだ.


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 熊谷直一氏は文部省派遣の地質学者で,熊谷隊の隊長であった.派遣当時は京都帝国大学の助教授であり,湊先生と同じような立場であった.熊谷氏の著述は,当然ながら熊谷隊の調査についてである.しかし,熊谷氏の京都発から帰着まで,詳しく行程が述べられており,もし湊先生がこの「パレンバンの石油部隊」に投稿していれば,同様な行程が描かれていたはずなので,惜しい気がする.もちろん,湊先生とは隊が違うので,湊先生の行動は記されていない.

 しかし,示された図にパレンバン市内カンバン・イカン付近の略図が載っており,その「4」と示された宿舎には「佐藤道隆氏,同氏内地帰還後は湊正雄氏,浅野清氏」とあり,湊先生の足跡が浮かぶ.現在のパレンバンのどこに当たるのかは不明だが,今後も注意して追ってゆきたい.



「第2図 パレンバン市内カンバン・イカン附近略図」


(つづく)


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