2007年10月19日金曜日

メナシトマリ


 もう先月のことになってしまいますが,一家で札幌に(とある)コンサートを聴きにいったついでに,足を延ばして一泊し,小樽で遊んできました.
 「蝦夷地質学外伝」の最上徳内のところで触れた「メナシトマリ」の写真を撮りたかったこともあり,水族館で半日(^^;.

 いいお天気で,石狩の向うの丘陵地帯が見えます.
 アイヌたちが東風の時に待避場所として使った良港.メナシ(東)のトマリ(停泊地)です.鰊漁がさかんだったころは,漁港として栄えたそうです.いまは,トドの池として,子供たち(子どものような大人も含めて(^^;)を楽しませています.

 百数十年前,最上徳内が「ここらあたりには金の気がある」と蘊蓄をかたったその場所であることは,たぶん誰も知らないのでしょう.

2007年10月2日火曜日

林蔵の子孫

 「蝦夷地質学外伝」で,間宮林蔵の子孫が中学の同級生にいるという話を書きましたが,本日の昼頃,本人から電話がかかってきました.

 実は,今度の日曜日に,卒業してから40年目の同期会があるのです.
 幹事(名簿係・会計)を引き受けているので,最近懐かしい友人から連絡が入ります.

 “体が不自由なので,旭川に帰れないが,懐かしい”,“みんなに会いたい”とのことでした.
 ただ,それだけのことですが.

2007年9月15日土曜日

ガワー(Erasmus H.M.Gower)の伝習

副題「重箱の隅」(^^;

 「蝦夷地質学」の参「ガワー(Erasmus H.M.Gower)」の(1)で,ガワーがおこなった伝習について,少しふれましたが,どうもシックリこないので.

 ガワーの伝習項目に「小銃調練」・「分離学・測量学」・「伊太里亜語学」が挙げられていました.
 そこで「『分離学』というのはたぶん金属製錬法のことであろうし,『測量学』は地質図学・(地質)測量学に近いものであろうか」と書いてしまいました.
 ガワーが「鉱山学等も熟練致し居…」から続く文書なので,それに関連したものという前提でした.しかし,高橋輝和「シーボルトと宇田川榕庵」を読んでいたら,「日本初の化学書」という節で,「chemieという言葉が入って来るまではオランダ語のscheikundeが用いられて,『分析術』とか『分離術』と訳されていました.」とありました.つまり,ガワーの「分離学」は今の「化学」である可能性がたかいのではないかと思い始めたわけです.そうすると,ガワーの伝習はガワーの専門である「鉱山学」関係の伝習ということではなく,箱館奉行サイドの要望にそった基礎的な科目というということになるのでしょうか.
 そうなると,「測量学」も「地質図学・(地質)測量学」ではなく,普通の地理的な測量学なのかもしれません(それにしても,「伊太里亜語学」はどういう位置付けなんだろう).

 蛇足しておきます.
 「化学では分析・分離だけではなく,合成も問題になることから,榕庵は新しい名称を採用したと考えられています.彼の『舎密』という名称は明治になっても使われ…(中略)….しかし,この名称はその後,一八五〇年代に中国で作られた『化学』に取って代わられました.」(高橋輝和「シーボルトと宇田川榕庵」より)

2007年9月10日月曜日

新・博物館法

 久しぶりに,小樽にいってきました.
 小樽博物館のTさんと話をしていたら,新・博物館法の話題になりました.博物館のことはもう忘れようとしていたのですが,やっぱり気になるものです.
 以前,学芸員関係のMLで流されていたのを見たのです.第一印象は「くだらない」でした.新・博物館法は都道府県立レベルの学芸員がたくさんいる大博物館のことしか念頭にないようでした.

 よ〜く考えてみると,日本の博物館では,学芸員が一人しかいないような町村立の博物館が圧倒的多数を占めているのです.それなのに,新・博物館法は都道府県に一つ二つしかないような,したがって圧倒的に少数の学芸員が日本の博物館の将来を決めようとしているのです.

 なんだか,ほかの世界(たとえば政治とか)ととっても良くにてますね.
 圧倒的に少数の人間が,圧倒的に多数の人間の将来を決めてゆく.な〜ンか変ですね.

2007年8月30日木曜日

松浦武四郎の伝記

 蝦夷地質学外伝,其の九 「蝦夷日誌」(松浦武四郎)で,武四郎の伝記には吉田武三の「松浦武四郎」があるが,すでに入手不可能であるとし,代わりに,花崎皋平「静かな大地」や佐野芳和「松浦武四郎」が使えると書いておきました.

 最近,ほかにも伝記代わりに使える本が出たので紹介しておきましょう.

 それは,渡邊 隆(2007)「江戸明治の百名山を行く──登山の先駆者 松浦武四郎──」(北海道出版企画センター刊)という本です.北海道出版企画センターの北方新書シリーズの008として出版されています.お値段もお手頃.
 これは,松浦武四郎を登山履歴の上から紹介した本ですが,十分に伝記として使えます.
 私が武四郎の地質学的知識をとりだして紹介したように,同じ方法論で登山履歴から武四郎を解析したものです.もちろん,私の文章とは違い,武四郎は山ほど登山したので,この話題だけで,十分に一冊の本になっています.

 もちろん,例の「石狩岳登山」の謎についても載っています.

 さて,また続きを読むので,早々に失礼.

2007年8月25日土曜日

山崎有信の著書


 昨日,市街中心部に所用があったので,自転車でいってきました.
 帰り道,以前話題にした古書店が開いていたので,寄り道しました.松浦武四郎の本がいくつかあり,食指が動きましたが,所持金が少なかったのであきらめました.
 代わりにといってはなんですが,山崎有信の著書が2冊あったので買ってきました.
 一冊にはなんと著者の送呈印が押してあったので,つい(^^;

 それは「本田親美翁傳」というのもので,旭川由来の人物の追悼記のようなものです.挿入されている写真を見ているうちに,そういえば市内中心部の常磐公園に件の石碑があったことを思いだしました.
 そのうちにいってこよう.

 もう一冊は,「旭川十傑」という本で,チョット現在の感覚では理解できないのですが,北海タイムス(当時の新聞社)主催でおこなわれた,旭川在住の名士の人気投票みたいなものです.
 上位十名は「十傑」ということで,経歴とその抱負がのせてあり,その他十六名は「旭川名士」ということで,談話や論説が載っています.非常に興味深いことがたくさん書いてありますが,まだ読みこなしていないので,内容は後日.

 さて,山崎有信氏もこの旭川十傑に名を連ねており,しかもこの本の著者という妙な立場にありますが,第一章に「著者の経歴」として,92頁にわたり,自叙伝が書いてあります.まさに「苦学力行」という言葉がピッタリな人ですが,当時平民から成り上がるには当たり前のルートだったのかも知れません.
 さて,この自叙伝ですが,山崎氏が大正五年に弁護士試験に合格した時に,謝恩会を催し,その時の“演説”を速記したものを「判検事試験及第術」という本にして,それを流用したものだそうです.これはこれで面白いのですが,“演説”ということもあり,事件の正確な年月日など抜けている所も多いので,紹介するにはまだ時間が必要なようです.
 また,この本の発行が大正十二年ということで,その時には著者がまだ活躍中なので,それ以降のことについてもわかりません.

 でも,思っていればいつかは叶う様な気がしてきました.

2007年8月23日木曜日

「ウイル船長回想録」

 いま.ブラキストンについての原稿(蝦夷地質学外伝)を書いている最中です.
 ブラキストンの資料にジョン=B.=ウイルのことがでていました.「ウイル船長回想録」(杉野目康子,1989訳;道新選書)のことは,以前から知っていましたが,一時入手しようとした時に「品切れ」もしくは「絶版」ということで,放棄していたものです.ブラキストンについて書くに当り,一度読んでおく必要があるかと,市立図書館から取り寄せました.

 読んでみてびっくり,少年時代に夢中で呼んだ冒険小説のような内容です.これなら,子供たちが夢中になれるビデオ=ゲームのあらすじとしても使えるかも知れない.惜しむらくは,訳者が女性なので,言葉がやわらかく,海の男の回想録としては,いまいち乗りきれません.いえ,決して訳が下手なわけではありません.もうちょっと,べらんめえ調の方が,楽しめるかと思うだけです.
 それにしても,メルビルの「白鯨」のような世界が,函館を舞台にごく身近にあったことに驚きました.そして,残念なことにこの本はすでに「絶版扱い」で,入手不可能なのです.

 上海から箱館へ,ブラキストン大尉を運んだのは,このウイル船長(当時は水夫)がスタッフを務めるエバ号でした.数ヶ月後,ブラキストンを上海まで連れて返り,翌々年には,二等航海士として,アキンド号でブラキストンのために製材機器を箱館まで運びました.
 ウイル船長は,主にブラキストン&マール社やその親会社である西太平洋商会で働いていたため,箱館で起きた事件を克明に記録しています.箱館海戦で甲鉄艦が発射した大砲の弾が,ブラキストン邸の窓から飛び込み,居間を横切って食堂を通過し,家を飛びだして,牛の飼葉桶を粉砕した話や,それでも平然と食事をしていたブラキストンを活写しています.

 また,数年後,ウイル船長が座礁した船を救出に来た時に,箱館戦争の一方の雄であった榎本提督に出会い,手助けをしてもらった話など,興味深いエピソードが満載です.ウイル船長はこの時に青函連絡船の前身ともいえる定期航路についていたのですが,こちらの仕事は,黒田清隆配下の役人に邪魔されて,撤退せざるを得なかったのに,榎本は積極的にウイル船長を援助しているのが面白い.
 ただし,このエピソードはこれまでしられている榎本武揚の蝦夷地巡検の行程とは矛盾することがすでに指摘されています.

 とにかく,この本を入手しない手はない.
 さっそく,古書店に手配しました.

 北海道新聞さん.この本を復刊してください.儲けるためだけではなく,文化のためにやってんでしょ.出版業を.