2018年11月25日日曜日

新井白石の地質学

 
 新井白石は江戸時代中期の旗本であり,学者であった.現代的な分類で「~~学」,「~~学」といってもあまり意味のないことになるが,その頃の代表的な知識人といっていいだろう.かれは1657(明暦三)年に生まれ,1725(享保十)年に亡くなった.
 白石はたくさんの業績を残しているが,それは置いて,地質学に関係あるところを抜き出してみる.かれは1720(享保五)年,その時代の蝦夷地に関する知識を網羅した「蝦夷志」をあらわした.蝦夷志は,蝦夷地とその住人に関する記述であるが,「序」,「蝦夷地図説」,「蝦夷」,「北蝦夷」,「東北諸夷」からなる.
 そこに,地質学に関係する記述が一つ.以下.蝦夷志の「蝦夷」より….

「夷中は金玉を宝とせず(山に金銀を産し、海に青琅玕〈青玉〉を出すも皆採らず)。」
(奥州デジタル文庫「蝦夷志」より)

 具体的な地名こそないものの,蝦夷地の「山に金銀を産」するという.また「海に青琅玕〈青玉〉を出す」が,蝦夷(アイヌ)は「金玉を宝とせず」という(縄文時代の遺跡からは装飾として用いた翡翠が産している).

 「青琅玕」とは「青色の硬玉(=翡翠)」のこと.「青玉」とはサファイアを意味することが多いが,この場合はやはり「硬玉翡翠」のことであろう.道内に硬玉翡翠の産地は知られていない.「日高翡翠」といわれているのは「硬玉翡翠=翡翠輝石」ではなく,「クロム透輝石」(=軟玉翡翠)である.しかもこれが知られるようになったのは20世紀になってからのこと.「海から青玉が出る」というのは,本州の糸魚川や大陸から交易で持ってきたものが,間違って伝えられたものであろう.

 蝦夷地(道内各地)から銀はともかく,金は豊富に産し,松前藩を中心に民間人が採掘していたはずであるが,新井白石は知らなかった様である,この頃は,まだまだ「蝦夷地」は未知の世界だったのである.


2018年11月20日火曜日

林子平の地質学

林子平の地質学

 林子平は「江戸時代後期の経世家」として知られる.
 1738(元文三)年生まれ.1793(寛政五)年に死去.
 俗に「六無の歌」と呼ばれる「親もなし妻なし子なし板木なし金もなければ死にたくもなし」が,彼のすべてを表している.

 「板木」とは「版木」のこと.彼は「板木」と書いたのだが,のちの人間が勝手に「版木」に書きかえたらしい.この「板木」とは「三国通覧図説」(1785;天明五),海国兵談」(1786:天明六)の版木のこと.両著は幕府重鎮の逆鱗に触れ,発売禁止の上,版木は没収された.

 天明六年といえば,江戸幕府内で経済改革をおこない,蝦夷地開発を進めていた田沼意次が失脚した年.何が起こったか想像できるであろう.一方でこの年は,意次が派遣した蝦夷地探検隊の一人・最上徳内が千島を探検して得撫(ウルップ)島に到着している.

 さて,子平の「三国通覧図説」の「蝦夷」には,以下のような記述がある.本人の著作権は切れているので,できれば原文を載せたいところだが,いわゆる“お宝”なのでトラブル回避のため,わたくしめの現代語訳を示す.


【現代語訳】
 蝦夷地には,まず金山が非常に多いことが挙げられる.しかし,それを掘ることが知られていず,埋もれたままになっている.これは銀山や銅山もまた同じである.
 さらに砂金の出る地域が多い.それはクンヌイ(*1)、ウンベツ(*2),ユウバリ(*3),シコツ(*4)、ハボロ(*5)などである.この砂金は川に流れ出たものだけではなく,その産地は数10kmにわたって一面に生じる.たとえば,ハボロの砂金は海底より打上るとみえて,北西風で大荒れした後は浜に百数十㎞にわたって一面に金色になるといわれている.
 これらの金銀を採取せずに放置することは,まことに残念なことである.強く思うに,今これを採取せねば,こののち必ずロシア(*6)が取るであろう.ロシアがこれを採取したのちに後悔しても時既に遅しである.
 一説に,砂金を取ろうとしてハボロで越冬すれば極寒のため必ず死ぬという.たとえ死に至らなくても病を得て廃人となるのは必至で,行く人はいないと聞く.思うにそれは準備不足が甚だしいからである.ハボロにおいて寒さのために死人がでるのならば,ハボロより北に住む人たちはどうやって生きていけるというのだろうか.寒さのために人が死ぬというのは,暖かい地域の住人がなんの準備・対策もなく酷寒の地に行くからである.寒さ対策があれば,どうして死ぬことがあろうか.考えるべきである.
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*1:クンヌイ:kunne-nay (?) 「黒い川」というアイヌ語が語源とされる.訓縫(現在の長万部町字国縫)の事.「黒い川」の意味には諸説あり,川底が砂鉄で黒いからとか,川口から尾根まで10kmもなく日が暮れるのが早いからとかいわれている.別に伝説の巨鳥フリカムイが飛んできてあたりが暗くなったからというのもある.どれもイマイチ.さて,クンヌイの事であるが,実際は峠を一つ越えた今金町の利別川上流地域のことである.
*2:ウンベツ:不詳.様似郡を流れる「海辺川」流域か.様似町町勢要覧には1635(寛永十二)年「運別(西様似)の東金山で金採掘を行い,その河川に繁華な部落が形成された」とある.
*3:ユウバリ:夕張川のことと思われるが,その流域は広く,特定できない.しかし,石川貞治(1896)は「ユーバリ金田」の砂金・砂白金について書いている.このユーバリ金田とは主夕張川(シューパロ川)流域のことである.
*4:シコツ:「シコッ(sikot)」とはアイヌ語で,「大きな窪地」を意味するという.これは現在の「支笏湖」を意味するとか,支笏湖から流れ出る「川」(現在の千歳川:シコツの音が悪いので箱館奉行が縁起のいい「千歳」に改めたという)を意味するとか,諸説あるようであるが,たぶん両方なんだろうと思う.支笏湖周辺には「光竜鉱山・恵庭鉱山・千歳鉱山」などの金銀鉱山があった.
*5:ハボロ:現・羽幌川付近.ハボロに該当するアイヌ語は諸説あって不詳.子平はハボロについて詳しく著述しているが,実際にこの付近の海岸段丘・河岸段丘および沖積層の砂礫中には砂金および砂白金が含まれていることが知られている.羽幌の北約10kmの初山別村第二栄(旧セタキナイ)南方,南セタキナイ川上流では三浦鉱山が稼行していた.
*6:ロシア:原著では「莫斯哥未亞」(モスコウビアと読むか?)とある.

 さて,子平の原著では,蝦夷の地理・風俗に詳しい解説があるが,この部分の砂金に関する記述も,恐ろしく詳細である.では,これはどうやって入手した情報なのだろうか.

 じつは既に調べが付いている.詳しくはのちほど.乞う御期待.

2018年11月5日月曜日

新石器時代と“縄文”・“弥生”時代

 以前,「蝦夷の古代史」で縄文文化や弥生文化はあっても,縄文時代とか弥生時代はないのではないか…と書きました(2008.09.14)が,それは関根達人さんの「モノから見たアイヌ文化史」(2016)に図として明示されていました(2018.06.17).

 

 これは本土の時代区分と「東北地方」と「北海道」について示した図で,しかも,“弥生時代”末期からしかありませんが,このように図示することで明確になっています(関根氏は考古学者なので古い時代が上に示されていて,地質学を基盤とするわたしにはもの凄く違和感があるのですが…(層位学の原則として,下にある地層は古く,上にある地層は新しいから).それは別として…(^^;).



 これを別な面からサーチしたのが崎谷満(2008)「DNAでたどる日本人10万年の旅」です.明確に,日本列島には沖縄と本土(とくに関西)と北海道(ときどき東北も含む)の,最低でも三つの歴史がある,としています.これを図示してくれれば,ありがたいのですが,かれは分子生物学者で,他分野との無用な軋轢は避けようとしてるのか,言葉で示しているだけです(最近は「日本はひとつ主義者」たちも五月蝿いですしね).
 崎谷氏は歴史区分を「旧石器時代」と「新石器時代」にわけたうえで(新石器時代を「縄文と弥生」時代には分けていない:つまり,日本列島に縄文文化が散在するところに大陸から弥生文化がやってきて広がっていった:なお,「縄文人」といういい方もじつはおかしい;“縄文人”には複数のグループが混在している)議論しているのでわたしとしてはスッキリ.日本の歴史には「旧石器時代があるのに新石器時代がない」という,ずっと気になっていた違和感も解消.というわけで,学校で習った(即,国定の)「日本の歴史」はチャラに.こんなことを書くと,歴史家の方から,「地質学だって第三紀と第四紀があるのに,第一紀・第二紀はどしたんだ」といわれそうですが,これには深い(不快?)ワケがあります(「北海道化石物語」(構築中断中)の「新生代」あたり参照).簡単にいってしまえば,「第一紀~第四紀」という区分は廃止して,「古生代・中生代・新生代」という枠組みに組み直したはずなのに,新生代の区分は「第三紀と第四紀」を引き継いでもかまわないと考える研究者がいたことと,新生代を区分する「パレオジン・ネオジン」に「古第三紀・新第三紀」という誤訳を与えてしまった日本地質学会の重鎮がいたことです.この誤訳は,いまだに尾を引いています.

 崎谷(2008)について,もう一つ残念なのは,表題は「DNAでたどる…」なのに,材料がY染色体だけによるパースペクティブなこと.
 一方,篠田謙一「日本人になった祖先たち」(2007)は,こちらも副題「DNAから…」なのですが,ミトコンドリアDNAがメイン(一部,Y染色体についての記述もあります).こういったことをまとめて解説できる研究者はいないのでしょうかねえ….


 さて,全部一度(一度以上かな?(^^;;)読んだのですが,忘れている…というか,まったく自分のものになっていない((^^;;;).一遍全部通しで読みなおして,常識を再構築しなければ(^^;;;;).
 


2018年7月1日日曜日

有珠嶽とアイヌの傳説

 吉田巌(1910)「有珠嶽とアイヌの傳説」が入手できましたので,脚注つきでUPしておきます.

有珠嶽とアイヌの傳説     吉田巌

地理學上より見たる有珠嶽、歴史學上より見たる有珠嶽、古人の紀行に日誌にその記事や求む可し。近くは加藤學士の調査報告書*1及吉田博士の大日本地名辭書*2これを盡くせり。然も余はアイヌの傳説にして未世に紹介せられざるものあるを怨む。もとより零啐*3のものなりといへども一は以て這般*4の噴火を記念し、一は同好の士の參考に資せむとするまた強ち徒事にあらじと信ず。讀者希くは微意を諒せられむことを。
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*1:加藤學士の調査報告書:加藤武夫(1910)北海道有珠岳火山及び洞爺湖地質調査報文:第一編 地形論,第二編 一般地質構造論,第三編 有珠火山論,第四編 洞爺湖論,第五編 雑纂,のことと思われる.
*2:吉田博士の大日本地名辭書:吉田東伍(1907)大日本地名辞書.目次を見るかぎり北海道の地名には触れていない.
*3:零啐:漢語らしい.零=「0(この場合は「無」のことか)」,啐=「おどろく,よぶ,さけぶ,しかる」:「誰も言及しない」の意か.
*4:這般:(しゃはん)「この度の」.
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有珠嶽の名義に就きて
傳説を叙せむとするに先ち、一言有珠嶽の名義に就きて辮ずる處あらむとす。有珠嶽の名義に就きては諸説あり。然れどもアイヌ名はウスヌプリ*1にて原名ウショロヌプリ*2より轉約せし者なり。ウショロは灣、ヌプリは山の義、これ恰も陸奥宇曾利郡(宇曾利はアイヌ語ウショロ)に於ける恐山(恐はアイヌ語ウショロ)のそれと地形の髣髴たるを見る。又或書にイケウヱウセグル*3を以て有珠嶽の本名なりと註したる者あり。その解に曰く輕石を切り出すの義と、これ何によりてさる解釋を與へられしものなるか、余はこれを疑ふ者なり。何となればイケウヱウセグルとは山名にあらずして山神又は山靈の名なればなり。獨有珠嶽に限らず、山各靈ありと信ずるはアイヌの常習なり。イケウヱウセグルの名は有珠嶽占有のものにはあらざるなり。
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*1:ウスヌプリ:初出は松浦武四郎か.山田秀三(1984)が引用.
*2:ウショロヌプリ:初出は松浦武四郎か.
*3:イケウヱウセグル:永田方正(1891).「Ye kere use guru イェ ケレ ウセ グル 軽石ヲ削リ出ス神(有珠ノ噴火山ノ名ナリ)」とある.カタカナ綴りの違いについては,不詳.知里(1956)には「ye」の項目はあるが,「イケ・」に該当する項目はない.
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 「ウㇱ(us)」は,「入江;湾」(知里,1956).「ウソㇽ(us-or)」は「湾;湾内」(知里,1956).知里(1956)のどちらの項目にも有珠山の例は出ていない.

アイヌ神話の一
昔時大海の中に一の噴火山ありき。多くの神々其の周圍に集り、如何せばやと鎮火の議を凝しぬ。さる折しも一匹の燕、何思ひけむそのあたりを飛翔りて、切に嘲笑ひぬ。神々見とがめて曰く燕よ、汝何條鎮火の術をか知る、むだ口すな、そこ退けと追ひ立てければ、彼少からず怒り、體こそ小けれ吾が爲さむ様見給へとて天上さして舞ひ登るよと見えしが矢の如く走せ下りてスックと許焼山を含み抜き放ちてぞ陸上に移しける。もとより神ならぬ烏の仕業鎭火す可くもあらばこそ、其儘ひた焼けに焼けたるは今の有珠嶽なり。

 有珠山の創世にツバメが関係している伝説は,更科(1981)にもありますが,プロットはまったく異なります.もっと,別なバージョンもあったのかもしれません.
 記録されることもなく,伝承がなくなってしまったとすれば,まったく残念なことです.


アイヌ神話の二
昔老アイヌ子供を随へて有珠岳に登る。子供『山が育つたな』とつぶやきしに老アイヌさることやあると叱しけれは山神聞きとがめて怒をなし噴火せしめきといふ。

 山神はなにを聞きとがめたのでしょうね.
 子供にバカにされたと思ったのでしょうか,あるいは子供に「成長した」と褒められたのに,爺さんがとがめたので,それを怒ったのでしょうか.
 この文だけでは,どちらにでも解釈できそうです.


アイヌ神話の三
太古モシリ(蝦夷島)成れる時、天神、使者キラウシカムイ*1(額に角ある鬼の如き神と云ふ)をして下界にイナオ(木幣)を數多持ち下らしめ人類をしてこのイナオに倣ひて削り成さしめ惡といふ惡を祓ひ善徳を得しむ可き術を授けしめむとしき。故キラウシカムイ獨功を壇にせむと慾心を發して今の有珠缶を指して天降りぬ。天神、使者が邪心あるを知悉して大にこれを惡み、未山に達せざるに先ち引捕へてイナオを奪ひ使者をばテイネポキナシリ*2(地獄)にまで踏落し畢んぬ。故、その地獄の穴とは今の噴火口なり。使者絶命せり。獨彼のイナオは罪なきアイヌの手に入りぬ。これをイナオの起源とす。
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1*:キラウシカムイ:正確な綴りは不明であるが,「kiraw」は「つの(角)」(知里,1956)である.
*2:テイネポキナシリ:teyne-poknasir(ティネポㇰナシㇽ)「'じめじめした下界'の意.悪人の霊が死後に行く世界」(知里,1956).

 この話は,更科(1981)が引用・再掲載しています.
 しかし,プロットはおなじですが,内容が微妙に異なります.引用したい方はご注意ください.
 また,吉田が「キラウシカムイ」としたカムイは,更科では「キラウシコロカムイ」に,吉田が「テイネポキナシリ」とした地獄は,更科では「ポクナモシリ」になっています.「ポクナモシリ」は「pokna-mosir(ポㇰナモシㇽ)」,意味は「あの世(下方の・国)」(知里,1956)でしょう.


アイヌ神話の四
(天)
昔アブタ(膽振國虻田、古名ポンチプカ*1)に一人のオツテナ*2(酋長)ありけり。性兇猛、一村擧つて彼が振舞を悪みぬ。誅伐の天刑は村民の手によりて演ぜられぬ。然るにその怨靈有珠岳の三兄弟なる妖魔*3と結托し村民に仇を報ぜむとしき。怨靈妖魔相共に魔劍を揮ひて村民を惱ましぬ。魔劍もと錆びたるが如く光を認むる能はず。村民暗中刄に倒るる者多し。天神これを憐み、ヤアウオシケツプ*4(蜘蛛)をして怨靈妖魔を逮捕せしむ可く下界せしむ。ヤアウオシケツプ乃絲を吐き網を張りつつ有珠岳を覆ひ一擧して彼等を得むとし、山麓六隅の柳を柱として、六條の綱を結び固めぬ。魔靈恐怖して其逃途を求む。不幸なる哉、一個の網の目のち切れたる處を發見せられ遂に彼等を逸し畢んぬ。かくしてその切目こそはやがて火を吐き石を飛ばしいやましに良民を苦しましむる穴とはなりぬ。噴火口は實に魔靈の仕業に因りて作られしものなり。
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*1:ポンチプカ:不詳.ポン・チュㇷ゚カ(pon-chup-ka)か?,しかし,「小さな東」では意味不明.ポン・チカㇷ゚(pon-cikap)か?.ポンチカㇷ゚は「小さな鳥」であるが,ポロチカㇷ゚をタカ(オオタカ),ポンチカㇷ゚で「ハヤブサ」と区別することがあるらしい.
*2:オツテナ:オッテナ(ottena)=日本語「乙名」よりできた言葉らしい.①(内地の人が決めた)集落の頭となる役人.②(和人からアイヌ男子を呼ぶ場合は)「旦那」であり「おっさん」の意でもあるらしい.集落の長としての「酋長」のアイヌ語はkotankonnispa/kotankor nispaもしくはkotankor kur.性格が「凶猛」で人望がないのに「長」と呼ばれるのは不思議である.この場合は,和人が勝手に決めた「村役人」であるか.
*3:有珠岳の三兄弟なる妖魔:不詳.前後に解説なし.
*4:ヤアウオシケツプ:yaoskep ヤオㇱケㇷ゚(あみ・編む・もの=クモ)(知里,1962; 1976)のことか?

 このお話はまだ,ほかでは未見です.


(地)
ニサッサホ*1(曉明星)一人の兒星を持てり。兒星先ちて現はるる時は天災地妖ありと稱す。その故は己れの兒に災渦あらむとすれば先だてて看護せむとする親の情なればなりと云ふ。さてニサッサホは絶世のピリカメノコカムイ(美女神)にしあれば、天神、即其の美容に獰猛なる彼酋長の怨霊を魅し、耳目を迷眩せしめ手足身心の自由をさへ束縛せしめし一刹那に乗じヤアウオシケプを下したりし苦心も遂に水泡に歸し殆策の出づる處を知らざりし折柄アイヌの大英雄ポンヤウンベは同族ポンチプカウングル(虻田住民)の難を聞き其の居所エシカラ、トミサンペツ、コンガニヤマ、カニチセ*2より雲に乗りて飛來せり。時にアプタのウヱンメノコ(烏呼なる女)何思ひけむ裾をかかげで(ママ)有珠山に向ひ臀をあふりぬ。ポンヤウンベ烈火の如其非禮を怒り、同族の難を救はむ勇氣だに失せて呆れにこそは呆れたれ。今は悪靈の爲すがままに打任せたるのみかは己れも山を踏破り履にじりて散々に破壊せしめ、ここに虻田の生靈は悲惨なる最後を見るに到りにき。
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*1:ニサッサホ:nisatsawot nociw(田村辞書),nishat-shaot-kamui(ネフスキー「アイヌ・フォークロア」).
*2:エシカラ、トミサンペツ、コンガニヤマ、カニチセ:不詳.ポンヤウンベの伝説にはしばしば出てくる地名のようであるが,意味不明.


アイヌ神話の五*1
昔トカプチ*2(十勝)にイモシタグル*3とて暴戻慳貪飽くを知らざる大惡漢ありき。一朝忽焉として鬼籍に入りしが彼が現世の罪業は以てカンドモシリ*4(極樂)に入るを許されざれければ怨靈妖魔と化して至る處に出現していたく良民を害しぬ。遂に十勝を脱して有珠山に來りて放火したり。天神これを捕へもて蹂躙したり。山の噴火口を生ぜしは天神の踏しだきし餘勢に基くと。
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*1:この話は工藤梅次郎(1926),更科源蔵(1981)が引用している.細部が微妙に異なる.工藤(1926)は「神様のお怒り」という題名,更科(1981)は「有珠岳の噴火」という題である.
*2:トカプチ:不詳.リーズナブルな解説をおこなった地名解は未見.
*3:イモシタグル:不詳.工藤(1926),更科(1981)は「イモシタクル」としている.「-クル」は「-kur(・クㇽ):魔神;人」の意と思われる.
*4:カンドモシリ:不詳.工藤(1926),更科(1981)は「カムイモシリ」としている.



噴火と説話
有珠山の噴火はアイヌの口碑に存するものによればその幾度かの災禍に事實相前后し、年代相錯綜し複難を極めたれば、稍正確に近きものは、和人の古記録に其の片影を窺ひ知るを得可きのみ、然も再三噴火の慘狀を經驗せし古老は往々生存せざるに非らざれども今や年一年に亡し殆全く其實を傳ふる者なきに至れり。
有珠嶽の噴火は有珠虻田を中心として、辨邊*1禮文華*2長萬部*3遊樂部*4、落部、其他噴火灣一帯の各部落、舊室蘭*5、幌別、白老より遠く十勝地方に迄も聞えその神話さへ傳へられたり。
今本章を終らむとするに當り、有珠、虻田等のアイヌ古老の口碑による昔時噴火の説話要領を摘記せむ。
有珠嶽の噴火は、前のは春、後のは秋なりき。(前とは文化*6、後とは嘉永*7に事實年代相符合す)その以前の噴火(寛文)*8にはアブタ(當時のアブタは今の所謂虻田村トコタン*9の地)全部、熱火を浴び、土砂、石灰のため廢村に歸し、酋長の如きは實に壮烈なる最後を遂げたりとぞ。虻田會所詰の役人巡檢せし折、酋長が灰中に座したるまま合掌して山神に禱り動かざるを見て、怪み觸るれば全身壊れて灰となりぬ*10。彼が最愛の美女チシコサンの如きは如何にもして行方を知るを得ざりきといへり。爾來鮭の漁獵盛なりし河川も乾きて跡を没しアブタは廢村となり(アイヌの所謂トコタンの意義はこれなり)僅に逃れし者はフレナイ(今の虻田)に部落を移すに至れり。文化、嘉永の噴火には、有珠虻田共飲料水の盡きむを恐れ、豫め、多量を汲みて貯へたりと言ふ。又鹿、熊の皮などを打ち被ぎて逃げ延びしも、土砂、熱灰を浴びて全身焼欄し、海水に飛込む者はさながら釜中の魚の如く死にきと言ふ有珠の如きは降灰の甚しき爲、自他の家を辮別し難からむを慮り豫め各戸長き棒杭等を立てゝ落延びたるものなりと言ふ。
(完)
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*1:辨邊:弁辺(べんべ).現在の豊浦町.弁辺はアイヌ語の「ペッ・ペッ(pe-peか?)」に由来するとされる(更科,1982).
*2:禮文華:礼文華(れぶんげ).
*3:長萬部:長万部(おしゃまんべ)
*4:遊樂部:遊楽部(ゆうらっぷ).八雲町遊楽部.
*5:舊室蘭:元室蘭(現在の崎守町)か?
*6:文化:文政噴火のことか?.1822(文政五)年旧暦閏一月十六日より有感地震.十九日午後八時ころ噴火.上記の通りのことが起きた.
*7:嘉永:嘉永六(1853)年.旧暦三月六日から鳴動.十五日大噴火.二十二日火砕流発生.
*8:その以前の噴火(寛文):1663(寛文3)年,旧暦七月十一日から十三日まで微震.十四日の明け方より山頂カルデラよりプリニー式噴火.
*9:トコタン:この表現では「トコタン」という地名があるように受け止められるが,トコタンは「ㇳコタン(tu-kotan)」=「廃村」の意味.
*10:酋長が灰中に座したるまま合掌して山神に禱り動かざるを見て、怪み觸るれば全身壊れて灰となりぬ:同様の伝説が更科(1981)に記録されている.なお,アブタコタンの廃村は文政噴火のこととされているので,この記述には混乱がある.



2018年6月17日日曜日

関根達人(2016)モノから見たアイヌ文化史.

ようやく数十年来の疑問に答えてくれそうな本が出た.


いちばんの疑問は,「縄文文化」とか「弥生文化」とかはあるかもしれないが,“縄文時代”とか“弥生時代”はないんじゃろうと言うこと.
それは四頁の図1をみると一目瞭然.

といっても,まだ読み始めたばかりです.だから「答えてくれそうな…」なんですけれどね.(^^;;

 

2018年5月25日金曜日

山名考

 
 ネット上をぶらついてる最中に,とても詳細な山名考を展開しているページに出会いました.それは「あまいものこ」さんのページです.

 わたしが悩みに悩んでいる「オㇷ゚タテㇱケ山」や「大雪山」の名についても,過去の例を網羅して,考察を展開しています.

 一度お話ししてみたいですね.
 

オプタテシケ・プルプルケ.その後

 
久保寺逸彦「アイヌの神謡」に目を通していたら,ある一文が目にとまりました.

「ウポポの中で、最もポピユラーで各部落で謡われ、曲調も、土地によって種々違っているものに「Optateshke purpurke」云々というものがある。私は、これを胆振幌別、日高平取、石狩近文、北見美幌、樺太落帆等で録音したが、随分ヴァラエティに富んでいる。」

 非常に残念なことに,この「Optateshke purpurke」のウポポは内容が示されていません.また,「随分ヴァラエティに富んでいる」としていますが,そのバリエーションもまったく示されていません.厚さ3cmもある本なのに.アイヌ文化研究者ってのは,こういうのが多い様に感じるね.裏付けになるような肝心なことは書いていない.言ったモン勝ちの世界だね.そしてそれが,古典的研究として金科玉条になる….

 こうなったら,「近文アイヌのウポポ(神前に捧げる祭詞)にオプタテシケ,プウルケ,プウルケの祭文がある.」(近江,1931)を再検証する必要があるなあ.ほとんど不可能だろうけれど.

 最低でも,知里真志保の「アイヌ民俗資料」を確認する必要があるなあ.入手不可能なので,図書館に行ってくるかあ.自転車が使える季節になったし.

 でも,自転車ひき逃げ事件が連続して起きてるので,自転車族には辛い時期だなあ….