2009年1月4日日曜日

札幌農学校の地質巡検

 札幌の「I」さんから以下の論文があることを教えていただきました.

 北海道大学大学文書館年報の第2号(2007年3月)に,山本美穂子が「平塚直治受講ノート(西信子・西安信氏寄贈)をめぐって― 札幌農学校第14期生の学業史―」という論文を書いています.

 それに石川貞治が指導した「地質巡検」の概略が示されています(著者には地質学の素養はないようですし,論文執筆時に地質学者に問い合わせた様子もありませんね.言葉遣いに関しては,もしかしたら,「報文」のままなのかもしれませんが,論文としては適切でないものもあります).


 それが行なわれたのは,1894(明治27)年5月のことでした.
 平塚直治が佐藤昌介宛に提出した「地質学科修学旅行報文」が残されていて,概要を知ることができるのです.参加したのは農学科及び工学科の二年級の学生でした.

5月10日:
札幌から住吉まで(列車使用)
「報告内容:札幌~小樽間の風景を陳述.石狩平原の地層・地質,鉱物種類,土質(泥炭地) のほか,樹木植生(ハンノキ、胡桃、ニワトコ等)を記録.」とあります.

 列車に乗りながら,「石狩平原の地層・地質,鉱物種類,土質(泥炭地)」の観察ができるわけがないので,これは石川が口頭で説明したものでしょう.もしくは,我々の時代の地質学鉱物学教室で行なわれた「地質巡検」では,学生が資料を前もって調べて,現地で仲間に発表するという方法をとっていましたので,この当時も同様のことが行なわれた可能性もあります.
 いずれにしても,列車に乗りながらでは,現物に触れることは不可能ですし,乗車中はすることもないので,その時間を利用して石川もしくは学生が口頭で解説したものと思われますね.

旧忍路街道(徒歩)
「報告内容:街道の地質を観察」とあります

 “旧忍路街道”というものについては,山本(2007)は説明していませんが,現・国道5号線が明治27年当時のままであるわけはないので,旧道のことと思われます.しかし,その旧道がどこを通っていたのかは不明です.ここで,列車を降りたのが「手宮駅」ではなく,「住吉駅」であったことは何かのヒントになるかもしれません.つまり,旧道を使用するのは,手宮よりも住吉からの方が便利であったわけですね.
 “旧忍路街道”を徒歩で,塩谷の海岸に出るまで,随時露頭を観察したものでしょうが,陸路であれば,それほど露出がよかったとも思われません.

忍路郡塩谷
「海岸の地層を観察,石川貞治助教授の教導により地層走行・傾斜角度を測定」とあります.

 現在の通常の地質屋がつかう「ことば」とは異なりますが,「海岸付近に露出する地層の走行および傾斜を測定する実習を行った」のでしょう.これを行っているということは,地質学の実習としては,初歩の初歩なので,この実習を「研究」と表現するのは不適切であり,あくまで「実習」と呼ぶべきものでしょう.

忍路郡桃内海岸桃内
「石川助教授が砂岩に木葉印痕(化石)を発見.岩石が脆く,化石の採集不能を惜しむ.凝灰岩等の岩石を採集.」とあります.

 地学団体研究会・札幌支部編「札幌の自然を歩く」には,桃内トンネル付近には,「軽石を多く含んだ凝灰岩と砂岩の互層」がみられるとあります.多分,この露頭が石川助教授以下の学生たちが見学したのと同じものと考えられます.“印痕”という言葉は現在はつかいませんが,「報文」にそう書かれてあるとすれば,当時はそういう言い方をした可能性はあります(あまり聞いたことがありませんが…).しかし,その化石が(「印象」であるにしろ何にしろ)発見されたのは「非常に珍しいこと」だと思われます.
 現在の解釈では,この付近の当時の環境は,海底火山がしばしば噴火している状況で,堆積物自体は「水中火砕流堆積物」と考えられているからです.つまり,周囲に木が生えている環境も考えにくいし,「木の葉」自体が流入する環境も考えにくいわけですね.ましてや,印象であるにしろそれが化石となって残ることも考えにくいというわけです.
 もし,その標本が採集されていたとしたら,非常に貴重なものとなっていたはずです.

余市(河村),岩内街道,仁木村(輪島屋一泊)
「仁木村,黒川村の概況を陳述」とあります.

 現在の余市町に「河村」という地名は見当たりませんが,「黒川」は余市町の中心部の町名です.“岩内街道”は余市から稲穂峠を抜けて岩内へ続く道のことでしょう.
 住吉(南小樽)から余市まで約20km,さらに仁木まで4kmばかり,あわせて約24kmの行程です.当時はまだ,函館本線は開通していませんから,すべて歩き通したのでしょうかね.すごいですね.
 仁木の輪島屋に一泊.仁木村にあった輪島屋の記録があればおもしろいのですが,今のところ見当たりません.

 翌,5月11日は一日中鉱山を見学して,余市に帰り一泊.

ポンシカリベツ鉱山(余市1泊)
「鉱山の概況,入坑(萬歳坑)して採掘見学,撰鉱所の蒸気機関を見学.各種鉱物(金銀鉱,方鉛鉱等)を採集」と,あります.

 「ポンシカリベツ」は仁木町から余市川を約4km遡ったところで分かれる支流「然別川の支流」のこと.つまり,この鉱山は旧・「大江鉱山」と思われます.小関(1954)によれば,確かに大江鉱山事務所のすぐそばに「万才脈」と呼ばれる鉱脈があります.
 小関(1954)の当時は,すでにこの脈は採掘を中止しており,分枝脈において「銅・鉛・亜鉛鉱」を採掘していたそうです.小関によれば,この「地域の鉱床は…,石英脈および菱マンガン鉱脈の複成鉱脈で,金銀を含有し,石英脈にはやや多量の銅・鉛・亜鉛鉱物を伴う」とあります.
 なお,「方鉛鉱」は「鉱物」ですが,「金銀鉱」は「鉱石」であって「鉱物」ではありません.

 小関(1954)から,大江鉱山の沿革を転記しておきましょう.

「本鉱山は明治23年に発見されて以来,大正の初めまでは然別鉱山と称し,主として金・銀鉱床として稼行された。その後幾多の変遷を経たが,昭和25年7月現鉱業権者大江鉱業株式会社によりマンガン鉱床として再開され,翌26年からは銀・鉛・亜鉛鉱をも産出して現在に至っている。」
「昭和26年のマンガン粗鉱産出量は約14,000tで,同年までの合計生産量は約5万t以上に達し,昭和26年後半には毎月粗鉱1,500tを産出している。一方,昭和26年6月からは銀・鉛および亜鉛鉱をも採掘し,爾来6カ月間に含有量として銀26,800g,鉛37,620 kg,亜鉛42,280kgを産出した。」
「本鉱山の坑道総延長約8,000mのうち,当時入坑可能延長は約1,000mで,主要鉱脈である千歳脈・万歳脈および百代脈は各通洞坑地並以下は水没していた。現行採掘は上記主要鉱脈の疎水坑道地並以上について残鉱を採掘しており,夏季は坑外にある貯鉱の選別を併行している。採掘方法は手堀により,上向あるいは下向階段法ならびに両盤良好部については盤返し法によっている。」
「従来の設備としては焙焼爐36基(1基容量13~18t/d)があり,そのうち10基を使用中であって,これによりMn分28%以上の精鉱を出している。昭和26年における従業員総数は115名である。
 鉱区番号: 後志採登第42号
 鉱種名 : 金・銀・銅・鉛・亜鉛・マンガン
 鉱業権者: 大江鉱業株式会社外1(東京都日本橋区兜町2の18)」

 石川以下学生らの巡検のときは,大江鉱山として開業し,「銀・鉛・亜鉛鉱」も産出し始めた翌年にあたっていることになります.

 翌,5月12日は,帰路になります.

余市~小樽(1泊)
「忍路郡桃内の軟石坑を見学」

 これは,正確にいうと,多分「桃岩」付近の採石場のことだと思われます.前出「札幌の自然を歩く」には「この付近の軽石凝灰岩は古くから採石され,その大部分は小樽の倉庫の石材につかわれました」とあります.余市のニッカ工場もここ桃内の“軟石”を使用しているそうです.ちなみに,“軟石”と呼ばれている岩石は,通常,軽石凝灰岩:熔結凝灰岩をのことです.
 なお,「軟石坑」という言葉が使われていますが,「坑」は通常,掘った穴を示します.露天ではなく坑道堀をしていたのでしょうかね.採石場の記録というのは,ほとんど残っていないのが普通です.“軟石”を使用した建築物の方は文化財としての扱いがなされるようになってきているのに対し,片手落ちですよね.

5月13日:
小樽から札幌へ
「小樽郡奥澤村の軟石坑を見学,軟石・硬石を採集」とあります.

 小樽市奥沢の“軟石”は小樽市の建築物の石材として使われていたらしいのですが,採石場の記録はほとんど残っていないようです.最近,この奥沢の露頭が「北海道地質百選」にノミネートされたようです.ここでは,安山岩質火山角礫岩の上に軽石凝灰岩(=“軟石”)が乗っているのが観察できるそうです.

 採集した“軟石”と“硬石”は,それぞれ,軽石凝灰岩と火山角礫岩中の礫だったのでしょう.
 付近に,採石場跡の地形でもないかと探しましたが,市街地化が著しく,それらしきものは発見できませんでした.

全般
「石川教授,清水元太郎は石鉱・縄文土器破片を採集.余市川村で竪穴住居を発見.平塚は,植物52種を採集.」とあります.

 「石鉱」という言葉の使用例は聞いたことがありません.「鉱石」のことだと思われますが,前後関係の記述がないので不明です.
 採集された「縄文式土器破片」は,のちにフゴッペ岬付近で「フゴッペ遺跡」や「フゴッペ洞窟」が発見されますので,これに関係したものかもしれません.
 「余市川村」は現在の「余市町大川」のこと.したがって,これは現在「余市大川遺跡」として知られているものと思われます.また前出の「余市河村」は「余市川村」の誤記ということになるでしょう.
 大川遺跡は縄文から近世にわたる遺跡とのことで,北海道史では非常に重要な遺跡のようです.大川遺跡の発見者が石川貞治だったとは驚きですね.考古学の方面は私にはほとんどわからないのが残念.

 考古学的発見ばかりでなく,平塚は植物標本も採集しています.この一語から,この巡検自体は純粋な「地質学」巡検ではなく,札幌農学校開闢以来の伝統であるペンハローやストックブリッジがおこなった「博物学」的な巡検であったことがわかります.
 また,以前にも「北大百年史ではよくわからない」ことを書きましたが,この論文から,未公表の資料がたくさんあるのであろうことが想像できます.部外者には残念ですね.

 

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