2010年7月27日火曜日

ケントゥリオドンの眠り

 
 崖が,また少し崩れたようだった.*1
 崩れる岩の音と落下の感触で,ボクは目覚めかけた.
 でも,すぐにおさまったので,また寝ることにした.
 ボクは少し落ちたようだ.


 崖?,崖ってなんだろ?
 まあいいや.眠たい.
 ずいぶんと寝たようだけれど,まだ寝足りない気がする.*2
 あくびがでて,ボクはまた眠りに落ちた.


 「あ,骨だ」という声がした.*3
 ボクは持ち上げられて,運ばれているようだ.
 しばらくすると,乾いた気持ちのいい場所に連れてこられていた.
 あんまり気持ちがいいので,また,寝ることにする.


 酸っぱい臭いがする.*4
 どうやら,ボクは「酢のお風呂」に入れられているようだ.
 真っ暗だったボクの視界が,いちまい,いちまい,ベールを剥ぐように明るくなってきた.
 もうすぐ,目覚めの時間のようだ.


 「おはよう」と,男の人の声がした.
 目を開けると,メガネに髭の人がいた.頭にハチマキを巻いている.この人がボクを見つけてくれたようだ.
 あとで仲間に聞いたら,「学芸員」というんだそうだ.
 ボクは,「ヒゲの学芸員さん」とよぶことにした.


 学芸員さんは,博物館からおうちに帰る前に,ボクを「酢のお風呂」に入れてくれる.一晩をそこで過ごす.
 朝は一番に,真水で洗ってくれる.ボクの体のあちこちを点検して,壊れそうなところに,接着剤を塗って補強してくれる.
 そんなことが何日もつづいた.


 「イルカの頭みたいだな」と,ヒゲの学芸員さんがいう.
 そうだ.ボクは長い眠りにつく前には,海で泳いでいたんだ.
 「残念だけど,キミはもうここに居られない.」と,ヒゲの学芸員さんがいう.
 ボクは少し驚いた.ヒゲの学芸員さんを好きになりかけてたし,ずーっとここにいられるもんだと思っていたから.


 「仕事が忙しくて,キミの研究は,とてもできないんだ」*5
 「本当は,ボクの手でキミを世界に送り出してあげたいんだけど」
 「キミのことは,Iさんにたのんだ」
 「Iさんはキミのことを研究したがっていたので,よくしてくれるとおもう」


 ボクは,箱に詰められて,Iさんのもとに送られた.
 Iさんは,ボクの回りに残っていた石のかけらをキレイに取りのぞき,それから,毎日ボクをながめている.
 ボクとIさんの長いつきあいが始まった.
 Iさんは,ボクの弟をつくってくれた.弟は真っ白な顔をしている.*6


 ボクと弟は,Iさんと一緒にニュージーランドやアメリカに旅行した.
 なんでも,ボクの仲間は世界中の地層からでているんだそうだ.
 Iさんは,ボクに名前をつけてくれた.
 ケントゥリオドン・ホベツ[Kentriodon hobetsu]というんだ.*7


 ボクは世界でも一つだけの,めずらしい化石らしい.
 外国の仲間とは,少しだけ,ちがうんだそうだ.
 ボクのことは,日本語や英語の論文になった.
 ボクは世界に羽ばたいた.ヒゲの学芸員さんの願いどおりになった.


 忙しい日々が終わり,ボクは懐かしい博物館に帰ってきた.
 ヒゲの学芸員さんにあえると思ったけど,いなかった.
 となりのミンククジラさんに聞いたら,退職したそうだ.*8
 残念だけれど,しょうがない.ボク一人では,どこにも行けない.


 博物館は気持ちがいい.
 毎日,たくさんの人がボクたちを見に来てくれる.
 毎日が,穏やかに過ぎる.
 ボクはまた,寝ることにした.今度起きるのはいつのことだろう.


【解説】
*1:日高山脈とその周辺は,かつて海だった.かつての海に平らに堆積した地層は,日高山脈の上昇に伴い,山脈の肩にのった格好で陸地化した.そのとき以来,地層は傾斜し,褶曲作用がつづいている.
 陸地化すると同時に,風化浸食作用がはじまり,以来,つねに,どこかの崖が崩れている.

*2:この小さなイルカは,いまから約千五百五十万年前の“滝ノ上”海とよばれる海に生息していた.それ以来,発見されるまで,滝ノ上層とよばれる地層の中で,眠っていた.

*3:化石は生物の遺骸なので,どれも特有の組織と構造をもっている.慣れてくると,岩石の表面に飛び出している化石のわずかな断面だけで,貝殻であるとか,動物の骨であるとかが判断できる.

*4:産出する化石の多くは,石灰質団球(俗に「ノジュール」ともいう)の中に見いだされ,母岩は「酸」に溶けやすい.これを利用して,化石の剖出をおこなう場合があるが,化石自体が石灰質の場合が多いので,細心の注意が必要である.まさに,ベールを剥がすような作業である.

*5:小規模博物館の学芸員は,俗に「雑芸員」とよばれるほど,雑用が多い.その大部分は設置自治体の無理解とご都合によるもので,学芸員本来の業務を圧迫している.この場合,化石の採集や研究,その化石による普及活動が「本来の業務」であるが,実際は,そのほとんどが「それ以外」の“業務”である.中には,文字にするのが差し支えるような“業務”も多い.業務に真剣な学芸員ほど,ジレンマに悩むことになる.

*6:化石の研究には,レプリカ(=複製)を多用する.実物は貴重で,代替がきかないからである.展示用には,多くは(実物に類似した)着色したレプリカをもちいるが,研究用には不要である.したがって,素材の色そのままのレプリカも数多くある.

*7:Kentriodon hobetsu Ichishima, 1994:ケントゥリオドン属[Kentriodon]は世界中で数種が発見されている.それらと,明らかに異なる点があるために別種であると見なし,「穂別(産)のもの」という意味で,種名をホベツ[hobetsu]と命名された.なお,Ichishimaは命名者名.1994は命名した論文が発表された年である.
 「針」のことをギリシャ語で「ケントゥロン[κέντρον]」といい,これをラテン語風につづると,「ケントゥルム[centrum, kentrum]」になる.これが,語根となり,centr-, centri-, centro-, kentr-, kentri-, kentro-とつづられる.
 一方,ギリシャ語で「歯」のことを「オドン,オドントス[ὀδών, ὀδόντος]」といい,これをラテン語風につづると,「オドン,オドントス[odon, odontos]」となる.
 ケントゥリオドン[Kentriodon]はこれらの合成語で,「針の歯」という意味.上顎,下顎に針のような歯が並んでいたのだろう.ケントリオドンと書かれることも多いが,不正確.
 なお,ケントゥリオドン・ホベツの化石は頭骨の前半部が欠けており,歯は発見されていない.

*8:ミンククジラ[Balaenoptera acutorostrata]:じっさいに現代の海を泳いでいたクジラの骨格標本.化石ではない.化石との比較用に標本とされたもの.ケンタくんの傍に置いてある.お話しでは,ケンタくんが帰ってきたときには,わたしは居なかったことになっているが,展示はわたしの手でおこなった.
 

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