2008年9月20日土曜日

「石井次郎教授追悼論文集」より

 東海大教授だった石井次郎氏は,1992年3月に定年退職した.その直後の4月1日に,心不全で死去されている.
 一年後,たくさんの関係者が集まり,「石井次郎教授追悼論文集」を発行した.
 その論文集の第三部には,石井教授の「思い出」が多数寄稿されている.


 1970年代の終わりから,積極的にプレート・テクトニクスによる日高変成帯の研究を展開してきたM氏は,その思い出を語っている.
 M氏が,北大理学部地質学鉱物学教室で研究生活をやっていたころの話である.

 M氏は指導教官と折り合いがわるく,博士論文提出後もオーバー・ドクターとして長い間研究職に就けない時期があった.そんなM氏に石井教授は「くじけないで,頑張ってくれ」と常に温かい言葉をかけ続けたのだという.

 少し関係を整理しておこう.
 石井さんは東海大学海洋学部の教授で札幌校に勤務していた.M氏は北海道大学理学部地質学鉱物学教室に籍を置くOD.両者の関係は薄い.わずかなつながりは,石井さんが北大教養部の非常勤講師(地学I担当)を併任していたということだけである.

 M氏はその後,石井教授のすすめで,東海大の海洋調査船に乗り,重大な発見をすることになる.


 少し脇道にそれる.
 石井さんがM氏に向けた気持ちは特別なものではない.石井さんは常に,若い研究者に対して,温かい気持ちをもって接していた.「思い出」の中には,いくつかそれが示されている.

 A氏も,博士号取得後,何年も就職が決まらずに,所属先を失うという最悪の事態を迎えていた.石井さんは,それまで全く面識がないにも関わらず,苦境を説明するA氏に「それは大変だな.ここの研究生になるか.」の二言で,救ってくれたのだという.三年後,A氏はS大学に就職が決まる.A氏は石井研究室を「駆け込み寺」と呼んでいる.

 T氏は,期限内に博士論文を提出することができず,研究生としての受け入れ先も見つからないという危機的状況にあった.石井さんは,またしても,T氏を研究生として受け入れる.T氏は「なぜ私が東海大学の研究生にならねばならないのか,といったことを全く気にもかけておられないことに,正直言って驚いた.」と書いている.
 石井さんは,充分にわかっていたのだと思う.当時の北大の大学院生たちの状況を.そして,若き研究者達の将来を気に留めていたのだろう.
 T氏は,現在,T大学に奉職している.

 かくいう私も,石井さんのお世話になりかけたことがあった.
 研究材料が集まらないのに,時間だけが過ぎて行き,「このままでは…」という状況のときだった.石井さんが,海洋調査船で収集した粘土鉱物を集めたミリポアフィルターを提供してくださったのだ.もしかしたら,その中に私が研究していた「石灰質超微プランクトン」が混じっているかもしれない,というのだった.
 結果は,僅かに「石灰質超微プランクトン」の産出がが認められた.しかし,残念ながら,論文として成立するような産出量ではなかった.採集地がかなり北洋だったためである.石井さんは我が事のように残念がっていた.






石灰質超微化石Braarudosphaera bigelowiのコッコスフェア(これは石井資料産ではなく,瀬棚層産の化石)石井資料からは現生のB. bigelowiのコッコスフェアが産出した.


 その関係で,指導教官から「船に乗りますか?」と聞かれたが,「地質屋は地表を歩くもので,船に乗るものではない」などと私は考えていたので,この話は具体化はしなかった.
 今考えれば,あのとき石井さんのお世話になっていれば,今こんなヤクザなことはやっていなかったかもしれない((^^;).


 話をM氏に戻そう.
 M氏が,石井さんの態度を怪訝におもうのは当然である.
 石井さんは,舟橋三男・湊 正雄両先生を尊敬しており,この舟橋・湊両先生は,ともに「地向斜造山運動論」の旗手であったのだ.その石井さんが,プレート・テクトニクス論を展開しているM氏に親切な言葉をかける….

 「当時の北大地鉱教室には,戦後の地質学において一時代を画した舟橋・湊両先生などが活躍していた最後の頃でした.その頃,プレート・テクトニクスが急速に台頭してきましたが,断固として地向斜造山論の旗を守っていました.」(M氏の追悼文より)

 石井さんは,元々,物理学が専門で応用電気研究所の助手をしておられた.学生時代は,ニセコ山頂で「零戦着氷防止」の戦時研究(中谷宇吉郎研究室)の手伝いをなさったこともあるそうだ.
 石井さんは,応用電気研究所・助手の席を蹴って地質学の路を選ぶ.山岳部の先輩でもあった湊先生が,熱く「地球の謎」について語る姿に憧れていたためだ.北大地鉱教室の大学院生となり,定時制高校の教員をしながらの研究生活であった.
 鈴木醇教授に連れられ,日高のクロム鉱山をまわる.
 湊正雄教授の指導下,幾春別に入る.桂沢ダムの建設に伴う水没予定地のアンモナイト層序学をおこなう.この時の標本は北大博物館に展示されているはずだ.
 十勝国上厚内産のデスモスチルス類の産出層準を決める研究を行う.定時制高校の教員というアルバイトのため,フィールドワークに夏休み中の一ヶ月という時間しかとれず,タイムリミットを悟り,石狩段丘の粘土層に関する研究に切り替える.以後,粘土鉱物の研究が発展し,「北海道第四紀火山噴出物の風化過程」で博士論文提出.北大理学部助教授を経て,北大水産学部製造学科海洋化学講座の助教授に.1968年,東海大学・札幌校に海洋学部が開設され,その教授となる.翌年から,北大教養部で非常勤講師も兼任し,このころM氏を含む若き研究者達と懇意になる.

 石井さんは,すでに応用電気研究所に職を持っていたのにもかかわらず,身につけていた物理学を捨て,地鉱教室・層位古生物学講座の湊教授の元で古生物学をやるという.1950年,石井さん27歳の春だった.苦労して博士号を取得したが職はなかった.湊教授の尽力で北大水産学部に職を得るが,ある事件が起き職を辞することを強要される.
 (石井さんが,経済的に苦労しながら研究生活を続ける若者たちを放っておけない所以である.)
 石井さんにかかわるたくさんの人たちが動き,たくさんの葛藤があり,そして,幸いなことに,石井さんは東海大学・海洋学部に職を得た.そして石井さんは,石井さんが大好きな若者たちと,ともに学び,ともに遊び,そして多くの研究者達を輩出していった.(この部分,八木健三さんの追悼文から抄訳した)


 何年前になるだろうか,科学史家と称する連中が,「地向斜造山運動論」から「プレート・テクトニクス」への転換を「善悪二元論」で展開し,この“パラダイムの転換”を「錬金術師にも等しい地質学者」に対する「真の科学である地球科学者」の勝利であるとした.私には,とてもそんな単純なことであるとはおもえない.

 

3 件のコメント:

tatsuo さんのコメント...

豊平川中流の堰き止め湖の文献を探しに、レアックスに出かけた。石井文庫があった。そこで「豊平川が堰き止められていたこと」という文献を探しだすことができた。
私が古藤野湖を研究しはじめる25年以上前の文献である。

ボレアロプーさん さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
ボレアロプーさん さんのコメント...

コメントありがとうございます.
レアックスの石井文庫のことは承知しております.
ご研究が進展いたしますように.