2008年11月1日土曜日
白野夏雲
白野夏雲の名を私に教えてくれたのは,ある友人です.レゴ人形を巧みにつかって地質学の普及をしている人です.
話の発端は,ライマンの開拓峠越えの件で"chat"中のことです.
「道北の自然を歩く」(北大図書刊行会)には「突哨山の石灰岩は、1873年にライマンが発見したと伝えられている」と書かれていますが,「旭川市史」には「白野夏雲が二十二年,…東鷹栖のトッショ(突哨)山,俗にいう石灰山を発見…」と書かれていることを指摘してくれたのです.
彼女の指摘は正しく,1873年のライマン調査隊は道南部しか調査していません.北海道における第一回目の調査でした.翌年は,石狩川を遡って上川盆地を通過し,開拓峠を越して十勝平野にでる大調査旅行を敢行しますが,上川盆地では「『チユーベツ』の小石は、全く熱変石と火山石との二種より成りしものの如く、石炭 石灰石及び『セルペンタイン』等は、片塊だもあることなし。且、露営を占めたる河岸の小石も亦同質なり。」と記しています.
ライマンは突哨山の石灰岩は見ていないのですね.石狩川を遡ると,比布川との合流点付近を通ると,突哨山の露頭はよく見えるのですがね.ちなみに,アイヌの昔話では,ここに「アフン・ル・ハル(あの世への入り口)」があったとされており,鍾乳洞の開口部があったことが想像されます.鍾乳洞自体は昭和前〜中期の採掘ですでに無くなっています.
さて,私の調査行(古書・文献漁り)でも白野夏雲の名前は何回か出てきているはずですが,迂闊なことに,これまでは全く白野夏雲に興味を持っていませんでした.すでに持っていた佐藤博之(1983)「先人を偲ぶ(1)」(地質ニュース)には,白野夏雲のとんでもない人生の一部が記されていました.
友人に教えてもらった白野仁(1984)「白野夏雲」(北海道出版企画センター)はすでに絶版状態にあるので,古書店からようやく入手.厚さ3cmもある大著でした.
しかし,読んで見ると悲しいかな,夏雲のことは良く分かりませんでした.
著者は,北海道放送株式会社の社員で,報道を専門にしていたそうです.本人は夏雲の曾孫にあたります.伝記というのは身内が書くと,どうも判りづらくなる傾向があるようですね.著者が伝記の主人公をあまりにも好きな場合も同様のことが起ります.
前者の場合は,読者にとっては判らないことでも,身内にとって当たり前のことなら省略されてしまって,読者は良く判らないまま読み進めなければならなくなり,途中で興味を失ってしまうということがよくあります.
後者の場合は,「贔屓の引きたおし」みたいなことが起きて,記述が不正確になることがあるわけです.どちらの場合も,不要なことまで書き込みすぎて,読者には「なんだか良く判らん」となってしまいます.
夏雲は若い頃から石好きだったという記述が後半になってから出てきますが,「生い立ち」の所ではそんなエピソードは一つも出てきません.「本草学」を誰かに習ったなどという話も….
また,途中から「地質学」・「鉱物学」の先駆者だということになってしまいますが,そういうエピソードもどこにもありません.
強いていえば,夏雲が集めた岩石鉱物の類を息子(次男)の己巳郎がまとめて「金石小解」として出版しますが,どうもこれをもって地質学・鉱物学に詳しいということにしているようですね.
この「金石小解」は一般の図書館ではダナ氏の「マニユル・ヲブ・ミネラロジー」の訳本だということになっている場合が多いようです.幸い,国立国会図書館のデジタル・ライブラリーで公開されているので,明治12年版,明治15年版および明治17年版を見ることができます.
読んで見ると判りますが,これはそんなものではありません.夏雲が収集していた2〜3千余の標本のうち,息子の己巳郎が鑑定し,典型的と思われるものを選んで,その説明をダナ氏のマニュアル・オブ・ミネラロジーから和訳してつけたというしろもんです.
標本ではなく名前だけを抽出したもので,本文では夏雲の標本と対照すらしてませんから,実際には夏雲の標本は存在していなくてもよかったわけです.勿論,背景には夏雲が収集した標本がありますから,少なくとも「日本で産出した」岩石・鉱物を抽出しているということにはなります.
具体的にあるのは,名前と短い解説だけ.いってみれば,平賀國倫源内の「物類品隲」にそっくりです.「物類品隲」には産地が書いてあるからまだいいので,「金石小解」は辞典ないしは単語帳といったところです.
要するに,江戸時代の「本草学」から,一歩も出ていないわけです.
夏雲自身はこれを良く判っていたと見え,明治17年版「金石小解」では,大幅に改定を加え,中身を教科書風に整えています.
「白野夏雲」の著者・白野仁は,夏雲がつかった(標本の単なる集合名である)「金石」という言葉を曲解して,「金石学」とし,この「金石小解」を金石学の教科書であるかのように扱いました.そうすると(仁の説明によると)「簡単にいえば,金属器や石器に刻まれた文字を研究する学問だが,当時は,今の鉱物学も含まれ金属鉱石学といった幅広い分野にわたっていた」となり,夏雲=鉱物学者あるいは地質学者になってしまったわけです.
仁には,本草学と近代(-現代)鉱物学・地質学・鉱床学などの区別はついてませんので,意図的なのではなく,単なる勘違いなのかも知れません.
それにしても,当時の地質調査所の展示室は夏雲の集めた標本がほとんどだった(佐藤博之,1983)というから,優秀な本草学者であったことは間違いないようです.
え〜.ずいぶん,文句を付けてしまいましたが,知りたいことのいくつかは,見つけることができました.
確かに,「此石灰石は北海道石狩国上川郡忠別村字突所に於て,明治22年,予の発見する所なり」と「発見人,白野夏雲記す」とあります.翌23年9月には,「払下げ願い」をしたその書類が白野家には残っているそうです.なお,白野仁著「白野夏雲」には「明治32年」と一部誤植がありますので,注意してください.
なお,この「払下げ願い」の書類は,昭和12年に旭川中学(現在の旭川東高)教諭の村上久吉氏が「高畑家」資料から発見したものなんだそうです.「高畑家資料」というのは説明がありませんが,多分,高畑利宜のことだと思います.
なお,某友人は突哨山の露頭前に立ち,“どうしてこんな歴史的なことが放置されているのだろう”,“せめて看板でも立ててあればよいのに”と,思ったそうです.旭川市は自然科学を含めて,文化・歴史的なものの扱いには首を傾げることが多く,私は何も感じませんでしたが….
そういえば,某学校の先生が,この露頭で化石の様なものを発見して旭川の博物館に寄贈したが何の音沙汰もないと言っていたのを思い出しました.
もう一つ付け加えておきましょう.
うちの近所の嵐山には「近文山国見の碑」というのがあります.これは,明治18年8月27日に岩村通俊・永山武四郎らが石狩川上流の調査にやってきて,近文山に登り上川盆地を見渡して,“札幌以北の置くべき都はここ”ということで開発を決意したと伝えられています.翌19年に部下に命じて「国見の碑」をつくらせ,近文山に設置したのでした.この部下というのが,白野夏雲その人でした.
私が,生まれ故郷の旭川に戻って暫くしてから,体力をつけるためと付近の旧跡調べのために,マウンテンバイクでこのあたりを走りました.その時,この国見の碑までいったのですが,現地で物凄い違和感を覚えたのを覚えています.その時はなんだか判らなかったのですが,今は良く判ります.
くだらないことですが,「国見の碑」からは,上川盆地は見えないのです.
その時は,碑の周りに林が茂っているので見えないのだろうと漠然と思っていましたが,地形図を見ると嵐山展望台からつづく尾根が邪魔をして上川盆地方面は見えません.その尾根は「国見の碑」よりも高いのです.そこから見えるのは,かろうじて南側のみ.東海大学・旭川校の下流側,神居町忠和と呼ばれるごく狭い範囲だけ.なにか,間違いが忍び込んでいるのでしょうね.
さて,波瀾万丈の人生を送った白野夏雲ですが,複雑すぎて私にはまとめられませんので省略します.1890(明治23)年,その時勤めていた北海道庁を辞め,札幌神社の宮司になります.札幌神社とは現在の北海道神宮のことです.開拓使で物産調査をやり,地質調査所でも土石類調査をやり,道庁でも技術者として働いていた.それが故に地質学・鉱物学の専門家と勘違いされた白野夏雲が,…です.
現代的な感覚では,なぜ科学者が宗教に…?と,疑問に思うことでしょう.
私もそう思っていました.
それは,森本貞子の二冊の小説を読んでいるうちに理解できました.二冊の小説には共通の人物=森有礼が出てきます.森は,軽薄この上ない人物で,アメリカ留学中は男女平等に目覚め,帰国してしばらくはその政策を推し進めますが,日本で暮らすうちに女性は良妻賢母=軍国の母でなければならないと考えるようになります.
時代もそうで,幕末から明治維新にかけて,日本国民は欧米の文化に憧れますが,明治二十年代に入ると,逆に欧米を敵視するようになってゆきます.江戸時代まで,住民は宗門改で,みなお寺に人別帳がありました.つまりお寺が住民を管理していたわけですが,1873(明治6)年に廃止され,廃仏毀釈が始まります.逆に勢力を強めていったのが,明治政府が神社神道と皇室神道を結びつけて創造した国家神道でした.
白野夏雲は,自分の能力の限界に気づいていたのでしょう.資源開発は,本草学ではもう無理で,近代地質学が必要なことを.そして,彼が国に尽くす方法は,科学ではなく,宗教なのだと考えたのでしょう.
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2 件のコメント:
『白野夏雲』はイマイチでしたか…。スミマセン。
私は、役所と神社の関係をよく理解していなくて夏雲が神社へ行ったのは、人事異動のようなものかと思っていました。
科学者が宗教家というより、サムライが宮司になっていいのか…と思いました。
本「白野夏雲」はイマイチでしたけど,人間「白野夏雲」はやっぱり興味深い人物です.
若い頃に「洋学」に出会っていたら,全く違う人生だったでしょうね.
その若い頃の「夏雲」のことが,まるで出てなくて,ガッカリというとこです.
彼が公的に“科学者・技術者”として,活躍できたのは,(本草学の限界のため)「洋学」を身につけた連中が出てくるまで.その「つなぎ」だったんでしょう.
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