2009年2月12日木曜日

北海道の製鉄遺跡

 

「蝦夷地質学外伝」の其の弐「コシャマイン蜂起す」で,舞台になった志濃里の鍛冶村では「砂鉄を使って製鉄を行なっていた」という前提で解説してしまいました.
 もしかしたら,その筋の人の失笑を買ったかもしれません.

 あまり守備範囲を広げてはいけないとおもいながら,ついつい面白いものであちこちを探索してしまいます.もちろん,興味の中心は原・地質学=鉱床発見の方法が主なんですが….

 さて,たたら研究会編の「日本古代の鉄生産」という本があります.
     

 その中で,天野哲也さんが北海道の精錬鍛冶遺構について「僅かに近世末になって製鉄が行なわれた形跡が認められる」と述べています.この「近世末の製鉄」とは武田斐三郎の製鉄実験のことです(私は「蝦夷地質学」で紹介したような,技術者たちがたくさんいた「江戸時代末期は近代の始まり」ととらえていますので,「近世末」といういい方は気に入らないですが…;ここでも歴史屋さんに失笑されそうです…(^^;).
 北海道で発見されている鉄遺品は,すべて鍛冶製品であり,つまりは北海道には製鉄遺跡はないということです.蛇足しておくと,「鍛冶製品」とはすでに「鉄」としてあるものを加熱・打製したもので,砂鉄ないしは鉄鉱石から還元し「鉄」としたものはないということです.

 したがって,「砂鉄があったこと」と「鍛冶村があったこと」は何の関係もないというのが,専門家の判断ということになります.
 我ながら,知らないということは恐ろしい((^^;)


 ホントにそうなのか,探索してみました.
 たとえば「弥生時代には製鉄が行なわれていたのか,否か」という議論があるそうです.現在では「弥生時代後期」とみなされる製鉄遺跡がいくつか発見されているようですが,製鉄遺跡の数からいけば,弥生時代に普遍的に製鉄が行なわれていたと考えるのは困難なようです.
 ところが,弥生時代に急速に石器が駆逐されていることからは,石器に代わるなにかの道具の存在が必要になります.鉄器自体は酸化しやすく,モノとして残っていない可能性の方が高いんですが,この背景として製鉄遺跡がたくさん発見されているわけではないのが難点.
 一方で,鉄鉱石を原料とするような小規模な製鉄や朝鮮半島から入ってきた技術を元に砂鉄を原料としたやはり小規模な製鉄があったと考える人たちもいるそうです.
 小規模なら,遺跡として発見されないのも不思議ではない(現代の科学教育でテーブルの上に乗るようなタタラ炉で製鉄実験を行なっているグループもあります)し,砂鉄を原料とした不完全な製品を鍛造して鉄器をつくれば,そこには製鉄滓ではなく,鍛造滓ばかりが発見されることも説明できそうです.

 そうすると,室町時代ぐらいの辺境=志濃里を含む蝦夷地を舞台に考えると,本州ではすでに砂鉄を使用したタタラ製鉄の技術は成立しているわけで,その技術を蝦夷地にわたってきた鉄製品関係者が知らないと考えるものおかしい.
 また,蝦夷地のような辺境で,精錬(=砂鉄・鉄鉱石から鉄隗を生み出すこと)と鍛冶(=すでにある鉄隗から様々な鉄製品を生み出すこと)が分業していて,精錬をできない鍛冶技術者しかいなかったと考えるのは,逆におかしいのではないかと思えてくるわけです.
 つまり,精錬と鍛冶は分業しておらず,鍛冶をおこなう技術者は,小規模な製鉄ぐらいできたと考えた方がいいのではないかと思われるわけです.

 以上,我田引水的推論でした((^^;).
 
 

5 件のコメント:

beachmollusc さんのコメント...

はじめまして、

北海道の製鉄遺跡に関するブログ、そしてたたらに関連する他の記事も大変面白く読みました。

ひょんなことから、たたら製鉄に関する情報を探索しています。宮崎県の日向市に製鉄遺跡があったのかどうか、「金ヶ浜」という地名がそれに関係しているかどうか、地元のアマチュアによる郷土史に記載されていたことに疑問が湧いています。

問題の砂浜に砂鉄が多いかどうかも怪しいのですが、かんな流しで河川が汚染されて、砂浜に生息するハマグリが獲れなくなったとして、それを弘法大師伝説に引っ掛けて、公害隠しであると推論された文を読んでたまげています。

ボレアロプーさん さんのコメント...

お目にとまりまして光栄です.

ここ数ヶ月,空海にまつわる“製鉄伝説”の文献を読みまくっていました.
結論は,“民俗学”にはついて行けない.です((^^;).

民俗学という学問は存在しなくて,“佐藤-民俗学”とか,“鈴木-民俗学”とか,個別の“お話し”だけが存在するのじゃあないかという気がします.終いには,「柳田國男-民俗学」まで,疑い出しました((^^;).

お話しの「問題の砂浜の砂鉄」ですが,現地は見たことがないので,わかりませんが,「今」,表層に見えないからといって「無い」と判断するのは早計かと思います.
表層の砂の性質は嵐があれば一晩で変わりますし,地震で地殻変動が起きれば大きく変わります.
数百年の時間があれば,付近の沿岸流が変わって,運ばれてくる砂も変わることは十分にあり得ると思います.

私なら,何カ所か穴を掘って柱状を取り,砂鉄の層がないことを確認しますね.

 

beachmollusc さんのコメント...

早速のレス、ありがとうございます。

簡単に書きすぎて本意が表に出ていないコメントでした。砂浜の貝類を研究していますので、砂浜の変化の激しさは認識しています。

「海上の道」のタカラガイ問題については生物学的にかなり調べてレポートも書きましたが、柳田の話は空想の世界ですね。

砂浜に砂鉄があるなしの問題ではなくて、周辺の地質(四万十帯、日向層群と尾鈴山塊)から見て砂鉄鉱床が期待できない場所であり、かんな流しが行えるような河川がありません。

今朝、現地を見て来ましたが、砂鉄模様が砂浜の表面にあり、以前この浜で採鉱されたという記述は本当かも知れません。もしそうであれば、かんな流しが必要になるでしょうか。科学的に見てロジックの整合性がないと思っています。

ボレアロプーさん さんのコメント...

釈迦に説法でしたか.失礼.

タカラガイの話は貴ブログ中にあるのかと思い,過去の記事をざっと眺めさせていただきました.

毎日のように海岸に出かけられる生活は,うらやましい限りです.

博物館に在職中は,骨とアンモナイトの化石の整理が主な仕事でしたが,放置されている貝化石を整理しようと,貝の分類を独学でやったことを思い出しました.

勤務地から一時間弱で日高の海岸に出られるので,現世の貝を何度か集めに行きました.
イルカの遺体があったので,バラバラになる前に回収しようと持ち帰ったときに,公用車の中が異臭だらけになり,閉口したことを想い出します.
 

beachmollusc さんのコメント...

タカラガイに関する研究情報は「海洋と生物」という雑誌に20年くらい前に書いたものです。大学在職時には自分の学内サイトに情報を出していましたが、今はありません。

琉球から中国に輸出されたタカラガイについて興味を持ち、インド洋と東南アジアに中国の通商艦隊が出ていた頃、艦船のバラスト兼一部地域の交換通貨となっていました。宋から明代の初期までのことです。海外の関連文献を調べて近世までの流れをまとめました。

海上の道、の話はそれよりずっと前のことですが、琉球列島全域でタカラガイ類の採集調査をやった結果から、古い時代に貨幣として使われたキイロダカラの産地は少なく、代用品とされたハナビラダカラが多産しました。

貨幣にされたタカラガイ2種の熱帯太平洋の地域集団は殻の大きさに地理的クラインがあり、低緯度ほど小さくなる傾向がありました。太平洋諸島の各地で広く調査しました。

インド洋のモルジブでは古く(たしか10世紀以前)からキイロダカラの養殖がなされています。雲南で貨幣となっていたタカラガイは恐らくインド洋産でしょう。