2015年3月2日月曜日

近文地域の小学校とその歴史(番外編)

 
のちに北門尋常高等小学校となる上川第三尋常小学校は,計画当時,近文第五尋常小学校と呼ばれていました.
前述したように,この計画地は(市史によれば),以下のように記述されています.

三十四年七月,三線西一号共有地,今の大町二条六丁目に…近文第五尋常小学校を設けることに指定…」(旭川市史三巻二二九頁)

すでに論じたように三線西一号(三線南一号と同じ)には,大町は入りませんので(大町2-6は二線一号になる),上川第三尋常小学校の話のときには省略しましたが,念のため大町二条六丁目附近の地図を示しておきます.

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1902(明治35)年の近文二線一号(新旭川市史口絵より)
区画内は机上の空論かと思う.まるで,アフリカ大陸各国の国境線のようである.


1903(明治36)年の旭川市街図の一部
かなりいい加減な地図であるが,道路の配置は上図よりも現実に近い.


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:二線一号)
第七師団への引き込み線が見える.
師団設置にともない,師団通り(現在の「みずほ通り」)に沿って市街地化が進んでいる.


(1948:昭和23年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大町駅の南(現在の大町2条6丁目あたり)に,学校のような建物(グラウンド様の土地も含めて)が見える.
師団の練兵場の一角が市街地化している.
左下に見えるのは大有小学校.



(1956:昭和31年の同地域:1/25,000地形図・旭川の一部)
大町駅の南にあった学校様の建物には「工場の煙突マークと歯車マーク」が示されている.
ただし,廃校後,学校敷地が工場に払い下げられたことも考えられるので,学校ではなかったという証拠にはならない.
「師団通り」が「平和通り」に改称されている.


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大町駅舎が見える.グラウンド様に見えた土地には資材が積み上げられている.
大町岐線沿いに工場や木材置き場がならぶ.


(2008:平成20年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大町岐線は撤去され,跡地は緑地かされている.
工場群はすべてパチンコ屋になっている.


なんで,パチンコ屋ばかりなんでしょうかね.
約30年ぶりに旭川に戻ってきた時に,新築の建物で新しい大学ができるという話がありましたが,開校する前にパチンコ屋になっていました.その後は葬儀場になった((^^;).
文化の果てる町であることを象徴してるのかと思ったりして.
 

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