2009年11月29日日曜日

ゾンビが歩く

 
 先々週の日曜日(2009/11/15),北海道新聞の書評欄に「都城の歩んだ道:自伝」が載りました.評者は,杉山滋郎氏(北大教授)です.

 別に,都城氏の自伝なんかは興味がないので,どうでもいいんですが,誤解を招くような「言葉」がたくさんあるのが気になります.

 まず,見出しが「日本の地質学会に反発」「渡米し得た世界的名声」とあります.
 「日本の地質学会」のどこに反発したのか.記事には書いていませんが,それらしき記述では…,

「まず、日本の学界の封建的風土に我慢がならなかった。大学の研究室にいる助手は教授に仕える身であり、用事でいつ呼ばれてもいいよう、ずっと自室で待機していなければならない。」
「夕方になれば、 何度も教授室の前に行っては 鍵穴を覗き、光が漏れてこず 教授はもう帰ったと確認できるまで自分も帰らない。」

 整理しておけば,この文章からは,都城氏は都城氏がいた「東大地質学教室」の「封建的風土」を嫌ったとしか読めませんね.「東大」=「日本の地質学会」という構図は,…?,…!,まあ,あったのだろうけど((^^;,いまもあるしね),「一緒くた」にしちゃあいけないでしょ.ほかにも,大学,あることだし.

 もちろん,都城氏の中では「東大」=「日本の地質学会」だったんでしょうけどね.しかし,この人,東大にいる間に助教授にまでなった人で,「東大という体制」の中心人物に近い人じゃあないんでしょうかね.

 ちなみに,都城氏が嫌った「地団研」の巣窟といわれていた某大学では,助手はお気楽な生活してましたよ.一方で,その地団研の巣窟の中でも,東大からやってきた教授の下にいた助手や大学院生はいつもピリピリしてましたね.
 なにが事実なんだか,表面だけではわからないですね.


 蛇足しておけば,都城氏が表現したような,この大学の雰囲気は好きでした.
 教授なんかが帰ったあとも(だからこそ),夜を日に継いで,実験機器を動かしたり,論文を読んだりしている,不夜城.

 いつのころからか,学生も,大学院生もサラリーマン化してしまって9時から5時までしかいなくなってしまいましたが,これには,先行して大学の教官たちがサラリーマン化した事実がありますね.
 大学が,学生を後継者ではなく,通過する人として扱いだしたことも,強く背景にあります.研究成果なんかよりも,施設の管理の方が大事だったようです.行き着く先は,….当然ですね.「愛校心」なんか,いうな.


 話を戻します.
 そのあとにも,酷く不正確な記述があります.
 いわゆる,「歴史主義論争」といわれるものについてです.これは,都城氏の自伝(と書いてある)ですから,都城氏は,やはり,「歴史主義者」vs.「物理化学主義者」との戦いがあったと認識している.
 栃内文彦氏が,実際に本人を含む関係者にインタビューし,検証した結果,そんな「戦い」は存在しなかったと結論づけた論文*があります(おかしいな.栃内氏がこの論文を書いたころは,まだ北大にいたはずだけれど,杉山氏は読んでないのですかね).
 しかし,これは,都城氏の自伝なのだから,都城氏は「戦いはあった」と認識しているわけです.
 人の心は闇ですね. 

 実は,科学史上,こういう存在しなかった「戦い」の話はたくさんあるのです.

 有名なのが「天変地異説」vs.「斉一説」
 ほかにも,「水成論」vs.「火成論」など.

 こういうシンボライズされた「戦い」は,「善」と「悪」が戦って「善が勝った」とか,「神」と「悪魔」が戦って「神が勝った」のように,単純で,わかりやすいですけれど,「要注意!」ですね.
 「忠臣蔵」の浅野内匠頭が実際は“たわけ”者で,吉良上野介が実は名君だったみたいに….評価とは逆の事実もあれば,ソンなことはどこにも存在しなかったりもする.

 “歴史主義者”の巣窟だった(ハズの)北大地鉱教室には,電子顕微鏡もあれば,古地磁気測定装置もあったし,EPMAなど各種測定機器がそろっていた.物理的性格も,化学的性格も,決しておろそかにされてはいなかった(八木健三さんが,実験鉱物学をやったからといって邪魔はされなかったし,逆に賞賛されたと証言しています).
 10年ぐらい前の,北大・地球物理学科の公式HPに某教授が「湊が分析機器を貸してくれなかった(意地悪された)」と書いていたくらいだから,全国的にも,北大内でも,相当早くに,これらの分析機器が導入されていたことがわかります.

 でも,話を単純にして,「歴史主義者」は,物理も化学も無視して,ドグマチックに学問を進めていたようにした方がわかりやすい.
 実際に,実に効果を上げているようですね.この話は,何度でも,出てきます.ウンザリするぐらい.

 ところで,都城氏は“歴史”を無視して((^^;),物理化学で「世界的名声」を得たんですから,「地質学の巨人」を名乗るのはやめた方がいいんじゃあないですかね.謳うなら「地球物理学の巨人」でしょう.
 贔屓の引き倒しみたいになってますね((^^;).

 なにか,暗殺した相手の名前を名乗ったヤマトタケルみたいですね.

 不思議なことに,似たような前例があります.
 “水成論と火成論の戦い”で勝利したとされる,ウェルナー[Abraham Gottlob Werner].彼は,地球の成立に関する思弁的な“地質学”をジオロジー[Geology]と呼び,自分がやっている地質現象を研究する(今でいう科学的な)学問をジオグノシー[Geognosy]と呼んで区別していました.
 結局,科学史上ではウェルナーの支持した水成論が勝利したことになってるのですが,我々が今,地質学と呼んでいるものは「ジオロジー」です.勝利したから,相手方の名を名乗ることにしたのですかね.

 今では,当たり前のことですが,岩石には水成岩もあれば,火成岩もあることがわかっています.

 勝利したはずの,ライエルの斉一論は,どうも怪しげな所があると疑われていますし,「世界を変えた地図」のスミスも,最初ではなかったことが指摘されています.
 地質学史は,まだ幼稚なんです.
 もっとも,現役時代のスミスは敗残者の方にリストアップされていて,同情すべき人物ですが….スミスは技術者であって科学者ではなかったので,彼の靴についた泥でアカデミーの絨毯が汚されることはなかった…と,表現されてますね.


 誤解を恐れずにいえば,「地質学は歴史学」です.

 歴史的背景を抜きにした地質学は,あり得ません(時間はパラメターではないと思う人は,「地球科学」を名乗ってほしいものです.だから,地球科学は地質学に取って代わることは出来ません).

 一方で,再現不可能な現象の多い「地質学は科学ではない」といわれることさえある.
 それは,時間がパラメターだからです.

*栃内文彦(2002)第二次大戦後の日本地質学会における“歴史性論争”=舟橋三男は“歴史主義者”だったのか?.科学史研究,41巻,65-74頁.
 

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